祈るときには、こう言いなさい。
2019年07月28日
ルカによる福音書11章1節〜4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
今、読みました、今日の福音書、とくに、1節から4節の、「主の祈り」について、ご一緒に学びたいと思います。
ここにおられる皆さんは、みんな「主の祈り」を暗記し、よく知っておられることと思います。教会委員会でも、婦人会でも、いろいろな集会の後で、「では、最後に、主の祈りをご一緒に唱えて、祝祷をして頂いて終わりましょう」などと言って、閉会のためのセレモニーとして、そこで何とか落ち着いた気持ちになって終わります。私たちが、最も慣れ親しんだお祈りです。朝夕の礼拝、聖餐式、結婚式や葬送式でも、すべての礼拝に、この「主の祈り」が唱えられます。
そのように、よく知っている「主の祈り」について、もう一度、立ち止まって、このお祈りが、どのようなお祈りか考えてみたいと思います。
ご存じだと思いますが、新約聖書の中で、マタイによる福音書(マタイ6:9〜13)と、ルカによる福音書(ルカ11:2〜4)の2ヶ所に、このお祈りが記されています。
マタイ福音書6章に記されている主の祈りは、イエスさまが山の上で、多くの人々に、お話をなさった「山上の説教」の中の一部です。そこで、イエスさまは、人々に、「祈るときにも、あなたがたは、偽善者のようであってはならない」と言われ、お祈りの言葉の中でさえ、偽善者になってしまっている。また、ことば数が多ければ、熱心に祈ったつもりでいる人たちに対しても、きびしく非難されたことが、その動機になっています。そこで、「このように祈りなさい」教えられたのが、この「主の祈り」と呼ばれるお祈りです。(マタイ6:5〜8)
一方、ルカによる福音書の場合は、場面が、マタイとは違っています。ルカ福音書の「主の祈り」は、お祈りをしているイエスさまの姿を見て、心打たれた弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言いました。このヨハネとは、かつて、ヨルダン川で洗礼を授けていた人で、この洗礼者ヨハネを慕って弟子たちが集まり、「ヨハネ教団」と呼ばれる集団ができていました。その中で、ヨハネが、ヨハネの弟子たちに、「祈り」について教えていたのを、イエスさまの弟子の一人が、伝え聞いて来て、「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったのだと思われます。
そのような弟子の願いに応えて、教えられたのが、このお祈りです。イエスさまは、「祈るときには、こう言いなさい」と言って、この祈りを教えられました。(ルカ11:1)。
マタイが伝える主の祈りと、ルカが伝えた主の祈りを比較してみますと、いくつかの違いがあることに気づきます。
一つは、マタイが伝える主の祈りは、文章が長く、ルカの方は短いということ、そして、マタイの方にある2つの願いが欠けていることです。
そのような違いがある「主の祈り」ですが、「赦す」、「赦し」という言葉は、マタイにも、ルカにも両方で取り上げられています。しかし、細かいところでは、その表現が、すこし、違っていることに気がつきます。
マタイ福音書では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」(12節)とあり、ルカ福音書では、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。」(4節)となっています。
細かい違いですが、ルカ福音書のほうが受けとめやすいことがわかります。というのは、「わたしたちも人を赦しましたように(赦しましたから)」とはなっていないからです。
マタイ福音書のほうでは、「赦しましたから」と、現在完了形になっているのですが、これに対して、ルカ福音書では、「赦します」と、これから「赦します」という現在形になっています。
マタイは、人間の行いによって、神さまの赦しが与えられると言っているのではなく、ただ、神さまの赦しを願う時には、自分は、兄弟に対する無慈悲さをすでに処理し終わっていることが条件になっています。しかし、わたしたちが「ように」とか「から」というと、わたしたちが赦すことに結びついて、「そのように」赦してくださいと、言っているように聞こえて、唱えにくくなります。それに、私たちが、赦していないとすれば、「赦しましたように」の「ように」は、全くウソの上塗りをしているようになってしまいます。
また、「赦す」ということは、こちらが正しくて、相手がわたしに対して不正である、間違ったことをした、不当なことをした場合にいえるとすると、わたしが正しくて、相手が悪いという前提に立っていることになります。
わたしは、相手を見下ろし、相手は、わたしから見下ろされていることになります。その「見下ろすこと」をやめようというのが「赦す」ということなのです。
少し、ひねくれた解釈のようですが、この「赦す」ということ自体も、どこかすっきりしない。そこにさらに「のように」ということばのつまづきが重なっているのがマタイ福音書の「主の祈り」なのです。
ところが、教会の長い歴史の中で、このマタイ福音書の主の祈りから、「我らに罪を犯すものを我ら赦す如く、我らの罪をも赦し給え」(文語祈祷書)、「わたしたちの罪(つみ)をおゆるしください。わたしたちも人(ひと)をゆるします。」(口語祈祷書)となり、伝統的祈りとなって、聖餐式のほか、あらゆる礼拝で唱えられる、定型化しています。
このように、イエスさまが、私たちに「このように祈りなさい」と教え、唱えることを命じられた、主の祈りは、こんなに厳しい祈りであり、私たちに迫ってくる祈りであることに気づかされます。
さらに、もう一個所、前後しますが、ルカ福音書の最初のことば、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」について、考えてみたいと思います。
マタイ福音書では、「み名が聖とされますように。み国がきますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。」となっています。ルカによる福音書には、「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。」がありません。
ここに挙げられている、「み名」、「み国」、「み心」とは、どのような意味でしょうか。それは、神さまのお名前、神さまの国、神さまのお心という意味ですが、それは、もっと具体的に言えばどのような意味なのでしょうか。
カトリック教会のカルメル会という修道会の修道士で、15年前に亡くなった奥村一郎という神父さんが書かれた本の中で、唱えておられる説をご紹介したいと思います。
「主の祈りの、み名、み国、み心、そこに「愛」という言葉を置き換えてみるとよい。愛の名、愛の国、愛の願い、それも天に行われるだけでなく、それと同じように、この地上に実現しなくてはならない。「われらが人をゆるすごとく」ということは、父なる神の赦しが、私たちのうちに現実化することにほかならない。その愛と赦しこそが、「今日」必要とする「われらの日用の糧」でもある。そのために、「愛さない試みから」守られるように「愛さない、愛せない」という人間の最も悲惨な「悪」から救われることを願う、
それが「主の祈り」の本質的意味といえよう。」(奥村一郎選集第8巻「神に向かう<祈り>」より)と、言っておられます。
イエスさまが教えられた祈りは、旧約聖書の時代からユダヤ人たちが持っていた祈りを受け継いでいますが、同時に、イエスさまの独特の祈りでもあります。
それは、先ず、第一に、「父よ」という最初の呼びかけにあります。神さまに対して、「父よ」と呼びかけることができる方は、そのひとり子であるイエスさまだけです。ただ、単に、神さまと人間の関係を擬人化して、人間の父子の関係に当てはめたというだけではありません。父である神の実の子として、当然のこととして、「お父さん」と呼びかけているのです。そして、私たちも、キリストに繋がることによって、イエスさまが、実子であるのに対して、養子として、「父よ」と呼ぶことが許されているのです。
第二に、神さまとの関係が正されることを祈ります。「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」と、先ず、最初に、私たちが、お願いしなければならない願いごとを述べます。マタイでは「御心が行われますように」という言葉がありますが、このルカではこれが抜けています。
「聖名が崇められますように」は、最も価値のある方が、価値あるものとされますようにと祈ります。世界中のすべての人々から、神さまは、神さまとして崇められ、賛美され、礼拝されることを、わたしたちは、先ず願わねばなりません。
次の「御国が来ますように」と言う願いは、神さまの支配が、世界中に行き渡りますようにという願いです。神さまは宇宙のすべてを創造された創造主です。わたしたち自身を含めて、この世のものは神さまによって造られた被造物です。ところが、被造物は、創造者の意志を無視し、創造主の支配を拒んでいます。
そして、三番目に、今日一日の食べものが与えられることを、わたしたち自身のことを祈ります。「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい」と祈れと教えられます。マタイでは、「わたしたちに必要な糧を今日も与えてください」となっています。わたしたちが生きていくのに必要な食べ物、食べ物だけではなく、衣食住を今日一日の、足りる分を与えて下さいと祈ります。イエスさまが教えておられるお祈りの中には、明日の分も、明後日の分も、一ケ月先の分も、一年先の分も、一生涯心配のいらない衣食住を保証して下さいと祈れというようには読めません。今日一日、日毎、日毎、必要な分を願いなさいと教えておられます。
四番目に、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈れと教えられます。私たちは、毎日の生活を続ける中で、神さまに対して、沢山の負債(罪)を、負っています。まず、私たちは、神さまに赦されている罪(負債)の大きさを知らなければなりません。わたしたちが神さまによって、赦されていることを知った時、私たちが、自分に対して、隣人が負っている負債を、はじめて、赦すことができるのです。神さまとの関係と隣人との関係が、わたしたちそれぞれの上で交差するのです。
最後に、「わたしたちを誘惑に合わせないで下さい」と祈ります。これは、誘惑が来ないようにと祈るのではなく、誘惑が来ても負けないようにと祈ります。荒れ野において、イエスさまが誘惑に打ち勝たれた姿を思い出したいと思います。
さて、主の祈りの解説が長くなりましたが、主の祈りの意味をよく理解し、心を込めて、この祈りを唱えたいと思います。主の祈りは、呪文でもなければ、言葉そのものに、御利益があるわけでもありません。主イエスが、弟子たちに、そして、わたしたちに教えられた祈りは、完成された、祈りの神髄がすべて含まれていると言われます。そこには、非常に水準の高い信仰が求められています。しかし、そんな難しい「祈り」は祈れないというのではなく、わたしたち自身の祈りを、まず、「主の祈り」にまで、高めたいと願うことから始めなければならないと思います。イエスさまが教えて下さった「主の祈り」に、自分勝手な解釈やいいわけを混ぜて、薄めるのではなく、私たちの、日常の生活を、何とかして、主の祈りに合わせて、生きようとする努力が、大切なのだと思います。
〔2019年7月28日 聖霊降臨後第7主日 (C-12) 聖光教会〕