目を覚ましている僕
2019年08月11日
ルカによる福音書12章35節〜40節
(35)「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。(36)主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(37)主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。(38)主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。(39)このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。(40)あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
今、読みました今日の福音書、ルカによる福音書12章35節から40節から40節には、「目を覚ましている僕」という小見出しがつけられています。
ある時、イエスさまは、一つのたとえを話されました。
ある家のご主人が、結婚式に招かれ、宴会に出席しました。そのため、帰って来るのが遅くなり、深夜になりました。当時のユダヤ人社会の習慣では、婚礼の儀式は、夜に行われ、盛大な宴会が続きました。
その家のご主人が、突然帰ってきても、その家の召使い、僕たる者は、ちゃんと目を覚ましていて、灯りが消えないようにを気をつけて、服装も整えて、ご主人さまの帰りを待っている、そのような召使いでありなさい、と言われます。 いつも、身支度、心の準備をして、ご主人のお帰りを待っている僕のようにしていなさいと言われました。
さらに、それだけではなく、イエスさまは、話の続きとして、37節以下ですが、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、反対に、ご主人は、帯を締めて、この僕たちを、食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださる。」と言われました。
イエスさまは、このたとえ話をして、弟子たちや他の人々に、何を語ろうとしたのでしょうか。私たちに、何を教えようとしておられるのでしょうか。
教会で、よく使われる言葉に、「終末」とか、「キリストの再臨」という言葉があります。説教や聖書の勉強会でも、キリスト教用語として、その言葉について、その意味や、教えが、語られますが、しかし、聖書には、ことさら「終末」とか、「再臨」という言葉は、出てきません。
終末とは、「世の終わり」、「物事の終わり」を意味します。また再臨とは、世の終わりの時に、キリストが再び来られるということを信じる信仰の内容です。
旧約聖書のいちばん最初、創世記の冒頭では、神さまが、「光あれ」と言われて、そこから、この世が始まったと記されています。しかし、現在の科学者の間では、宇宙の始まりは、35億年から40億年ぐらい前に、宇宙に、ビッグバンと言われる大爆発があって、宇宙ができた。その星の欠けらの一つが地球になったと、説明されています。
さらに、人間の生命の始まりは、今から、数百万年ぐらい昔だっただろうと言われています。
要するに、宇宙の始まり、地球の始まり、この世の始まりというものがあったように、また、いつか、世の終わりの時も、あるのではないか、いや、必ずあると、考えられているということです。
とくに、キリスト教では、このような世の終わりについて論じることを「終末論」と言います。
さらに、新約聖書では、イエスさまご自身が、死んで、よみがえり、さらに、再び、あなたがたの所に現れるであろうと約束されました。(マタイ26:64、フィリピ3:20ルカ9:26,17:24,使徒言行録17:31等)。そのことから、人々は、「キリストの再臨」を待ち望む信仰を持ち続けています。
キリスト教の2千年を越える歴史の中で、その時は、いつ来るのか、どのようにして来るのか、議論されたり、実際に、その日時を予言する人が現れたりして、今日に至っています。
そこで、私は、この世の終わりを考えることも大切だと思うのですが、それよりも先に、私たち、自分自身の終わりについて、自分自身に「終わりがある」ということについて、真剣に考えておくことが、もっと、大切なのではないかと思います。大氷河期がやってくるとか、どこかの星と地球が衝突するとか、そのような地球の終わり、この世の終わりよりも前に、わたしたち一人ひとりに、必ず、確実に、終わりがあるということ、そのことを、よく考えなければなりません。
それは、私たちが、いろいろなものを見たり、聞いたり、いろいろなことを考えたり、想像したり、笑ったり、悲しんだりしている毎日の生活、私たちの人生には、必ず終わりがあるということです。
たぶん、宇宙や世界の終わりよりも先に、一人の人間として、私に、自分自身に、必ず終わりがあるということです。
確実に、例外なく、私たちは、死ぬということです。
そして、その時は、もっと身近に、確実に来るということです。
私も、若い時から、人間はかならず死ぬものであるということは、知っていました。頭では、わかっていたのですが、この歳になって、もっと、現実味を帯びるようになりました。しっかりと受け止めなければならないと思うようになりました。
あちこちで、よく引用する言葉なのですが、永六輔さんの言葉を使わせてもらいます。
「人間は病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ。」
永六輔さんの友人が、がんセンターに入院していた時、となりのベッドの老人、おばあさんが、ぽつんとつぶやいた言葉だそうです。友人から聞いて感動したと、永六輔さんが紹介しています。
「人間は病気や事故で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ。」
寿命という言葉を、改めて国語辞典で引いてみました。
すると、「生物の命」、「生命の長さ」、さらに「ものが使用に耐える期間」とありました。「このテレビも、もう寿命だなあ」とか、「このクーラーも寿命だなあ、来年は、買い換えないとなあ」などと言って、耐用年数を調べたりします。
そこから連想するのですが、食品の「賞味期限」という言葉ですが、これは、いちばん美味しく食べられる期間のことだそうです。
耐用年数や賞味期限は、誰が決めるのでしょうか。その食品を作った人、生産者が決めます。
「人間は病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ」という言葉は、すべての人に、それぞれに、「定められた期限」があるよということです。私たち人間一人ひとりのその「期限」を、「その時」を、決めるのは誰でしょうか。
それは、神さまです。私たちは、自分で決心して、自分で生まれてきた人は、一人もいません。目に見えない大きな力、すべてのものの命の根源である神さまによって、生まれさせられてきたのです。
そして、ある時突然、私たちに命が与えられたように、また、ある時、突然、神さまの意志で、その命は奪い取られます。私たちの目には、不公平に見えますが、生かされているその期間は、まちまちです。また、命が奪い取られる方法も、まちまちです。いろいろな病気で死ぬ人もあれば、事故で死ぬ人もいます。老衰で死ぬ人もいます。
ですから、私たちは、与えられた期間の命を、その生かされている人生を、その期間を大切に生きなければならないということです。
さて、聖書の内容に戻りますと、そのように、私たち一人ひとりの「終わりの時」は、かならず来る。しかし、それは、いつ、どこで、どのようにして来るのかは、私たちには、わからないと、イエスさまは、言っておられます。その時は、いつ来るのかわからないのだ、と。
それは、夜中に、ご主人さまが、突然、帰ってくるようなものです。突然、戸が叩かれます。召使いは、主人に仕える人は、その時のために、あかりを灯して、帯をきちんと締めて、服装を整えて、目を覚ましていなさいと言われます。
その逆の態度をとる召使い、僕は、戸を叩かれても、眠り込んでいて、あかりも消えてしまい、帯を解いてだらしない格好になっています。まったく準備ができていない、緊張していない僕です。あわてふためいて、バタバタしても後の祭りです。
ここで、イエスさまは、不思議なことを言われました。
37節以下ですが、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は、帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て、給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と、言われます。
実際の社会では、主人と召使い、使用人と被雇用者の立場が逆になるようなことは、あり得ません。主人が、召使いや奴隷の世話をするというようなことはありません。
しかし、神の国では、神さまと私たちの関係にでは、いつも、目をさまして、心の準備をして、緊張して、その時が来るのを待ちなさいと言われます。
そうすると、その召使い、僕は、ご主人さまから手厚いもてなし、歓待を受けると、言われるのです。
私たちは、死んだらどこへ行くのか、天国や地獄の絵で描いたような光景を、説明するのは難しいことです。しかし、神さまからの命の息、すなわち霊となった私たちは、神さまが用意して下さっている食卓、招待されている宴会の席につくことが約束されているのです。接待を受けると約束されているのです。
聖書、ことに新約聖書では、福音書にも、パウロの手紙にも、その背景に、終末思想があふれています。聖書は、このような「世の終わりは近い」という考え方が、特別の緊張感の中で語られ、記されているのです。
私は、この年齢になって、聖書が、私たちに、言おうとしていることの意味を知る信仰の喜びを、感じることができるようになりました。いい年頃になったような気がします。
若い時には、前ばかり見て、ひたむきに歩いてきました。しかし、今、「終末の時」が近いことを前提にして、歩んできた道を振り返り、さらに、今、何をなすべきか、どのような生き方をすべきかを、考えることができるようになりました。
それは、自分の終わりの時を、終末を、身近に感じることができるようになったからです。
自分にも、私にも、必ず終わりがある。そのことを前提にして、そして、今の自分の生き方、在り方を見直すことができるからです。神さまとの関係、人との関係を、もう一度見直してみることです。
財産を持っている人は、自分の終末を身近に感じて、相続問題や、家財道具の始末、断捨離で、頭がいっぱいという人が、いるかもしれません。
しかし、もっとだいじなこと、いちばんだいじなことがあります。それは神さまとの関係です。いつ、その時が来てもいいように、心の目を覚ましていなさい。肉体の睡眠は、しっかり取らなければなりません。それよりも、起きている時です。「心の目」見開いて、目を、覚ましていなさい。灯りをつけて、心に帯をしっかりと締めて、「はい!」と言って、すぐに立ち上がれるようにして、その時を待ちなさい。
神さまの祝宴に招かれる喜び、イエスさまが、私たちを招き、接待して下さる喜び、その時が来ることを期待て待ちたいと思います。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に、来るからである」(ルカ12ノ40)と、言われます。
〔2019年8月11日 聖霊降臨後第9主日(C-14) 於・大津聖マリア教会〕