分裂をもたらすために来たのだ。
2019年08月18日
ルカによる福音書12章49節〜56節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
今、読みました今日の福音書の前半の部分、ルカによる福音書の12章49節から53節までから、イエスさまが語られるメッセージを受けとりたいと思います。
イエスさまは、弟子たちに言われました。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには、受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:49〜51)
私たちは、日頃、イエスさまという方は、柔和な方、優しい方だと思っています。イエスさまは、最もだいじな掟として、「あなたの隣人を愛しなさい。自分を愛するように、あなたあの隣人を愛しなさい」と教えられました。「互いに愛し合いなさい」と、繰り返し教えておられます。
ですから、私たちは、イエスさまという方は、争いを好まない、人と人とが対立することを好まない、何よりも平和を愛する方だと思っています。
しかし、今日の福音書では、イエスさまは、何とも恐ろしいことを言っておられるので、驚きます。
この個所をもう一度、注釈を加えながら読みますと、イエスさまは言われます。
「わたしが、この世に来たのは、人々に火を投げ込むためである。その火が、あなた方の中で、その前から、激しく燃えていたらと、わたしは、どんなに願っていたことか。しかし、わたしには、(これから)受けなければならない洗礼がある。それが(その洗礼が)終わるまで、わたしは、どんなに苦しむことになるかということである。あなたがたは、わたしが、(この)地上に平和をもたらすために来たと思っているのか。そうではない。言っておくが、わたしが、この世に来たことによって、分裂が起きることになるのだ。」と、このように言われたのです。
この言葉は、何回読んでも穏やかではありません。
「火を投げ込む」ということについては、いろいろな場面を思い浮かべますが、イエスさまが実際に、放火をして火事を起こすという意味ではありません。
火は、何かを暖め、光を与えるところから、神の力と、神の荘厳さを象徴しています。(申命記5:24、イザヤ10:16、ヘブル12:29)
旧約聖書では、神さまは、柴が燃えている火の中から、モーセに語りかけました。(出エジプト3:2〜) また、シナイ山においては、神さまは、火の中にあって、モーセに、ご自身を表されました。(出エジプト19:18) 火の柱は、脱出したイスラエル民族が、荒野をさまよっている時、いつも、モーセとイスラエルの前を行き、彼らを導きました。(出エジプト13:21) さらに、神の怒りは、たびたび火と関係して表されています(詩編79:5、83:14、89:46、イザヤ26:11)。
火には、清める作用があり、神が与える懲らしめの手段として表されています。(詩編46:9、マルコ9:49、ヤコブ5:3)
このように見て来ますと、聖書に記されている「火」は、神の手であり、神の力であり、神のいろいろなしるしであるということができます。
さらに、イエスさまは、「わたしには、受けなければならない洗礼がある」と言われました。(12:50)
洗礼とは、私たちが、キリスト教徒となるために、父と子と聖霊の御名によって、頭に水をかける儀式です。「洗礼」とは、聖書が書かれたギリシャ語では、「バプテスマ」と言います。これは、「浸水する」、「水に浸す」という意味です。水に身体を浸す、身体を洗うというところから、「清める」とか、「新生」とか、「生まれ変わる」という意味を持っています。
洗礼は水に浸ける儀式です。ユダヤ教では、ユダヤ教以外の異教の神を信じた人が、改宗して、ユダヤ教の信者になる時には、今まで犯してきた罪を告白し、悔い改めの心を表さなければなりません。そこで、水に入って、頭まで水に浸され、溺れる寸前に引き上げられ、生まれ変わった者として認められた者が、初めてユダヤ教徒として、受け入れられるという儀式が、古くから行われていました。
新約聖書に登場するバプテスマのヨハネは、「洗礼を授けてもらおうとして、出て来た群衆に、『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。‥‥‥‥斧は、既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」と言って、人々に、罪の悔い改めを迫り、大勢の人々に洗礼を授けていました。(ルカ3:7〜9)
イエスさまも、ガリラヤで、初めて人々の前に姿を現された時、ヨルダン川で、このバプテスマのヨハネから、洗礼をお受けになりました。
マタイによる福音書によりますと、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』と。しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』 そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」と、このように記されています。(マタイ3:13〜15)
イエスさまは、このようにして、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから、バプテスマ(洗礼)を受けられました。
このようにして、イエスさまは、すでに、ヨハネから、洗礼を受けておられるのに、なぜ、「しかし、わたしには、受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」と言われたのでしょうか。
ここで、私たちが、もう一度、思い出してみなければならないことがあります。
イエスさまは、何のために、この世に来られたのだろうかということです。
神さまのみ子として、この世にお生まれになりました。さらに、神のみ子でありながら、私たちと同じ、人間の肉体をとり、神さまでありながら、人間として、私たちと同じ罪人として、この世にお生まれになったということです。
全く罪を持たない神さまのみ子でありながら、バプテスマのヨハネから、他の罪人と同じように、一人の罪人として、洗礼を受けられました。そのことによって、この世に住むすべての罪人の代表者となられたのです。
神さまに背き、神さまに対して、罪を負っているすべての人々、罪を負っていながら、そのことさえ知らない、気がつかない人々をも、彼らを代表する者となるために、イエスさまは、この世に来られたのです。
それは、神さまが、すべての人々の上に、イエス・キリストという「火」を、投げ込まれたということです。
何も知らないで、ただ、平和、平和と叫び、見せかけの平和に、酔いしれている人々の中に、裁きの火が投げ込まれたのです。
イエスさまは言われます。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が、一人ひとりの胸に、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と。
さらに、言われます。
「しかし、わたしには、受けねばならない洗礼がある」と。
それは、イエスさまが、これから向かおうとされる苦難の道、十字架への道を意味しています。
神の子でありながら、すべての人間と、同じ罪を負い、すべての罪人の代表者となるための洗礼を受けられたイエス・キリストが、今、罪人の代表者として、苦難と死、十字架に向かって、歩もうとしておられるのです。
イエスさまが、これから受けなければならないという、2度目のバプテスマは、苦難と十字架を意味します。
先に言いましたように、バプテスマとは、「浸水する」、「水に浸す」という意味です。水に身体を浸す、身体を洗うということから、「清める」、「新生」、「生まれ変わる」という意味をがあります。
神さまに対して、すべての人間を代表するイエスさまは、水のバプテスマではなく、自らの苦しみと死をもって、人々の罪を清め、新しい命に生きる、生まれ変わりを、実現しようとしておられるのです。
「それが終わるまで、わたしは、どんなに苦しむことだろう」と、十字架の苦しみを予測し、予定しておられます。
最後に、イエスさまは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(12:51)と言われた言葉について考えたいと思います。
イエスさまが、私たちに求められる、本当の平和とは、「主にある平和」です。それは、神さまのみ心が、何ものよりも、優先され、尊重されることです。神さまのみ心が、私たちの心のすみずみまで、行き渡ることです。そのような神さまと私たちとの関係、そのような状態を、「神の国」と言います。
神を神としない、キリスト・イエスを神の子として認めない、聖霊の働きを信じない、神以外のものを神とし、安楽と快楽を求め続ける、この世に、神さまは、キリスト・イエスという「火」を投げ込まれました。
神は、本当の平和を求めない人々、神がいない見せかけの平和を唱える社会に、分裂をもたらす、イエス・キリストという試金石を投げ込まれました。それが投げ込まれたこの世では、分裂が起こります。イエスさまは言われます。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
〔2019年8月18日 聖霊降臨後第10主日(C-15) 於 ・ 聖アグネス教会〕