弟子の条件

2019年09月08日
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、2万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の1万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」」(ルカによる福音書14章25節〜33節)  今、読みました今日の福音書、聖書には、小見出しとして、「弟子の条件」と記されています。  イエスさまは、ご自分の弟子となるためには条件があると、言われます。  私たちが洗礼を受けた直後、額に十字架のしるしをつけられ、「これは、キリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、」と言われて、水と聖霊によって洗礼を受けました。(祈祷書281頁)  そして、また、堅信式を受る時には、主教さんは、「聖霊によって、この僕を強くし、ますます主に仕える者とならせてください」と言って、頭に手を置かれて、堅信式を受けました。(祈祷書284頁)  ここで、もう一度、イエスさまが求めておられる「弟子である者の条件」について学び、私たち自分自身の信仰をふり返ってみたいと思います。 イエスさまは、今日の福音書の中で、弟子となるために3つの条件を上げておられます。  第1の条件とは、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」という言葉です。(26節)  第2に、「自分の十字架を背負って、ついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」という言葉です。(27節)  そして、最後に、3番目の条件として、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(33節)と、言われました。  「なになにでなければ、わたしの弟子ではありえない。」という否定的な表現ですが、イエスさまの弟子になるためには、相当な覚悟が必要であり、難しいということが語られています。  まず、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という第一の条件ですが、マタイによる福音書では、イエスさまは、もっと厳しい言葉で語っておられます。マタイによる福音書の10章34節以下ですが、イエスさまは、「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは、敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(10:34〜39)と言っておられます。  私たちは、イエスさまという方は、「愛の人」だと思っています。「平和をもたらし」、「ほんとうの安心のため、人々が愛しあって仲良くするため」、「幸せになるため」に、この世に来て下さった方だと信じています。ですから、このような言葉を聞くと、ショックを受けます。  もう、8年になるのですが、あの2011年3月11日に起こった「東日本大震災」の後、日本中で、「絆」という言葉がよく使われました。この言葉は、もとは犬や馬や鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱を「きずな」と言ったらしいのですが、それが、しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われ、さらに、最近になって、人と人との結びつき、支え合いや、助け合いを指すようになった言葉なのだそうです。  家族の絆とか、友だちとの絆、人間同士の深い関係を表すのに「絆」という言葉がよく使われています。テレビを見ていましても、歌やドラマ、漫画のテーマなどにも、「きずな」という言葉が出てきます。一時期あふれていました。  イエスさまが語っておられる言葉は、「きずな」を大切にしようと、言っている現在の日本社会、現代人の人間関係の持ち方に、真っ向から水を浴びせるようなきびしい言葉です。  イエスさまに出会わなかったら、イエスさまを信じなかったら、クリスチャンになっていなかったら、こんなに苦しい、しんどい思いを、しなくてすんだであろうと思うようなことがあります。イエスさまがこの世に来られたから、毎日、平穏無事に過ごしていた生活に、剣が投げ込まれた、仲良くしていた者の間に、夫婦や親子や兄弟という家族の関係にもひびが入り、敵対関係が生まれ、平和でなくなったというような出来事が、長い歴史の中には、現実に、たくさんありました。  そして、今もなお、そのような苦しみを体験している人たちもいます。  そのことを考えると、これから、キリストの僕となろうとする者、弟子の一人としてイエスさまに従おうとする者は、相当の心の準備と、覚悟が必要だと言わているのです。  イエスさまがこの世に来られたことを、ヨハネの福音書は、「光が世に来た。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と、表現しました。暗闇の中では、正しいものも、正しくないものも、善も悪も、入り混じって、混沌としてうごめいています。そこに、一条の光が差し込みました。すると正しいものと、正しくないものが、くっきりと浮かびあがり、選り分けられ、悪いものがあぶり出されます。  別の言葉で言いかえますと、そこに、今まで知らなかった「新しい価値観」がもたらされたのです。何が正しいのか、何が正しくないのかという、道徳的なことだけではなく、いかに生きるべきか、ほんとうの幸せとは何かを問い、その答えを、もたらしたのです。  正しいことを正しいと言い、正しくないことを正しくないと言った時、そこには、必ず抵抗が起こります。分裂が起こります。当然、争いも起こります。  平和だ、平和だと言い、何の問題もないと思っている家庭にも、イエスさまに従おうとする者と、従いたくない者とが、同じ屋根の下にいる家庭においては、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎むことになります。それだけの覚悟が、ありますかと、イエスさまは問われます。  イエスさまの弟子となるための第2の条件は、「自分の十字架を背負って、ついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。  キリストの弟子となったために、それが原因で、家の中にゴタゴタが起こり、もめごとが絶えない、熱心であろうとすればするほど、いろいろな難題が持ち上がります。  しかし、それは、私たち一人一人が担わなければならない「自分の十字架」なのです。  私たちは、教会の群れに加えられ、「神の民」とされました。しかし、教会といえども、目に見える姿は、人間の集まりです。そこには。意見の違いもあれば、感じ方の違いもあります。そこには、言い争いが起こったり、気まずい思いをしたりすることもあります。それも、キリストのために、私たち一人一人が、担わなければならない「私たちの十字架」であり、「自分の十字架」なのです。  それだけではありません。私たちは、それぞれ、もっともっと、大きな、誰にも言えないような、苦しみ、悲しみ、悩みなど、重い十字架を抱えて、あえいでいるのです。  その十字架を背負って、息絶え絶えに、それでもイエスさまについて行く、従う覚悟がなければ、ほんとうのキリストの弟子にはなれません。イエスさまは言われます。 「自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:38、39)と。  わたしに従うのですか、従わないのですか、考え方、生き方、日々の生活において、イエスさまに、従うのか従わないのか、どちらですかと、私たちに迫っておられます。  まあまあとか、そのうちにとかいう、あいまいな答えはありません。  自分の力だけで、命を得ようとする者、自分の力だけで幸せになれると思っている人、自分が、自分で、自分のためにと、思って、自分の力に頼って、やみくもに、ただ、走っている人は、その命を得ることはできません。  反対に、イエスさまのため、イエスさまに命をささげようとする者は、ほんとうの命、ほんとうの幸せ、天国を得ることができるのだと、イエスさまは、言われます。  イエスさまは、自分自身、あの重い十字架を背負いながら、ゴルゴタへの道を歩かれました。私たちは、その姿を見つめながら、「自分の十字架」から逃げようとせず、最後の最後まで、つまづきながらでも、倒れながらでも従おうとするのです。そのような私たちを、イエスさまは、じっと見つめておられます。  そして、第3の条件は、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたの誰一人として、わたしの弟子ではありえない。」と言われます。  「自分の持ち物」とは、財産とか土地家屋とかお金とかもあります。言いかえれば、私たちが、大事にして、後生大事だと抱えているもの、さらに欲望や野心なども含めて、すべてのものを言います。  とくに、私たちは、現代という物質文明の中に生きています。目に見えるもの、目に見える効果、数字で表されるようなものを、大切なものとして求めています。  それは目で見えるから、数字で表されるから、絶対に確かなものだと信じているからです。しかし、それはほんとうに確かなものなのでしょうか。  「それらのものを一切捨てなければ、キリストの弟子にはなれない」と言われるのです。キリストのために、自分の命をも捨てることさえ求められます。  キリスト教の神髄は、キリストに従おうとすることです。私たちにとって、すべて、価値観の中心は、キリストにあります。クリスチャンとは、「キリスト中心主義者」であると言っても言い過ぎではありません。  ローマの信徒への手紙14章7節以下に、パウロは、このように言っています。  「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、「主」となられるためです。」  私たちは、キリストのために人を愛します。それは、神が私たちのために独り子を与え、キリストが私たちを愛してくださったからです。  私たちは、キリストのために、人に仕え、人に奉仕します。それは、キリストが、まず、私たちのために仕えてくださったからです。私たちは、キリストのために生きます。神さまが、私たちに命を与えてくださったからです。  私たちは、キリストのために、死にます。それは、その前に、私たちのために、キリストが十字架に懸かって死んでくださり、よみがえって下さったからです。私たちは、キリストのために、礼拝をささげます。それは、私たちに、神さまが特別の恵みを与えて下さり、私たちに、神さまに感謝し、神さまを賛美する方法を示してくださったからです。  私たち一人一人の肩にかかる自分の十字架、重い十字架を背負い、よたよたしながら、つまずいたり倒れたりしながら、しかし、どんなことがあっても、どこまでもキリストに従いましょう。イエスさまについて行きましょう。  イエスさまが示される「イエスさまの弟子となる条件」に少しでも近づくことができますよう、願い祈りましょう。 〔2019年9月8日 聖霊降臨後第13主日(C-18) 大津聖マリア教会〕