主人としもべ

2019年10月04日
ルカによる福音書17章5節〜10節 「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」  今、ルカによる福音書17章5節以下を読みましたが、この節の前に、イエスさまと弟子たちの間に、このような対話がありました。イエスさまは、弟子たちに言われました。 「(人は、みな、生きていくうえで)つまずきは、避けられない。だが、それを(すなわち、つまずきを)もたらす人は、不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし、兄弟が罪を犯したら、戒(いまし)めなさい。そして、その人が悔い改めれば、赦してやりなさい。1日に7回、あなたに対して罪を犯すようなことがあっても、7回、『悔い改めます』と言って、あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(マタイ7:21、22)」と言われました。  イエスさまは、兄弟(信徒、キリスト者など)が、罪を犯したとき、とくに、自分以外の兄弟に対して罪を犯したときでも、戒めて、赦し合い、互いに助け合うようにと教えられました。(17:1-4) そして、今読みました、今日の福音書です。  イエスさまのその教えを聞いた弟子たちは、そのためには、神さまに対する信仰がなければ、それはできないことだと気づいたのでしょう。そこで、弟子たちは、「わたしどもの信仰を増してください」と言いました。これに対して、イエスさまは、言われました。 「もしあなたがたに「からし種」一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して、海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろうと。(17:5、6)  「からし種」とは、クロガラシという植物の(Black mustard)の種をいいます。その種一粒は、ゴマよりも小さく、その種から油を採ります。その種が播かれ成長すると、茎の高さが5メートルにもなります。このようにクロガラシの種の小さいこと、また、その生長が著しいことから、たびたび、神の国の成長にたとえられます。(マタイ13:31、マルコ4:31、ルカ13:19)  ここに、人間関係の中の「罪を犯す」、「悔い改める」、「互いに赦し合う」という重大なテーマが取り上げられているのですが、そのような人間同士の関係にも、神さまと人との関係が、正しくなければならない。何よりも、それが前提であると言われます。  聖書の中に、または祈祷書のお祈りの中の言葉に、「主」という言葉、「しもべ」という言葉がよく出てきます。  「主」というのは、神さまのことであり、また、イエスさまのことであるということを、私たちはよく知っています。そして、主である神さま、または、イエスさまに対して、私たちは「しもべ」なのです。  この言葉の意味を、ほんとうに知るためには、イエスさまの時代の奴隷制度について知らなければなりません。  私たちは、奴隷制度というものは、映画や小説の中で知るぐらいで、今の世では考えられないことですが、イエスさまの時代のには、奴隷は、重要な労働力であり、当時の市民生活は、この奴隷によって支えられていたと言っても過言ではありませんでした。奴隷は、人間でありながら、人間として扱われない、道具や機械のように、こき使われ、奴隷の子は奴隷、そして売買され、生かすも殺すも所有者次第という身分制度でした。  聖書では、そのような身分制度、身分関係に立って、「主」であるとか、「しもべ」であるという言葉が使われています。  神さまと、私たちの関係は、神さまが主であり、ご主人さまです。これに対して、私たちは、しもべであり、主である神さまに、服従する立場にあります。  イエスさまの時代では、現実社会の、なまなましい出来事であり、制度であって、説明しなくても、誰にでもよく分かる関係だったのだろうと思われます。  そのように、ご主人と奴隷の関係を表す言葉を使って、神さまと、私たちの関係を表しています。  さて、今日の福音書、ルカ17章7節以下では、イエスさまは、一つのたとえをもって、神さまと、私たちの関係について、私たちの信仰について、改めて問われます。  イエスさまは、ここで、奴隷制度は、良いことだと肯定しておられるわけではありません。その当時の社会生活の中から「たとえ」を取って、その関係を教えておられます。  外に出て、畑を耕すとか、羊を飼うかしている僕、きびしい肉体労働をしている奴隷がいたとします。その僕が、一日の労働を終わって、疲れて畑から帰って来ました。すると、ご主人は「やあ、疲れただろう。お腹がすいただろう。さあさあ、手を洗って来て、すぐに食卓に着きなさい」というだろうか。  どんなに、へとへとに疲れて、帰ってきても、相手は、しもべ、奴隷なのだから、反対に、「早く、わたしのために夕食の用意をしてくれ。服装をちゃんと整えて、わたしが食事を済ませるまで、そこに立っていて、給仕しなさい。お前は、私が食べた後で食事をしなさい」と言うだろうと、言われました。  しもべは、命じられた仕事をしたからといって、ご主人は、「よくやった。ありがとう。ありがとう」と、その僕に感謝するだろうか。  だから、あなたがたも同じことだ。神さまと、あなたがたとの関係では、神さまが「ご主人さま」で、あなたがたは「しもべ」なのだから、神さまから、自分に命じられたことを、みな、きちんと果たしたとしても、「わたしたちは、取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです」と言いなさいと、教えられます。  旧約聖書のヨブ記22章2節、3節に、このような言葉があります。   「人間が神にとって、有益でありえようか。    賢い人でさえ、有益でありえようか。    あなたが正しいからといって、全能者が喜び、    完全な道を歩むからといって、神の利益になるだろうか。」  どんなに立派な仕事をしても、どんなに正しいことをしても、完全な道を歩いても、そのことによって、神さまに何か「益」をもたらす、「プラス」になるのでは、ありません。全能者である神が、喜ぶのでもない。神さまにとっては、当たり前のことをしただけだと、言っています。  どれほどよいことをしても、立派に務めを果たしても、神さまは、ご主人であり、私たち人間は、そのしもべなのだということです。その関係は変わることはありません。  アダムとエバの物語を思い出します。  神は、アダムとエバを、エデンの園に置かれた時、園の中央の木を指して言われました。「園のどの木からも実を取って食べてもよろしい。しかし、この園の中央に生えている木の実だけは、取って食べてはいけません。これを食べると、目が開けて、神のように善悪を知るものとなる」と。  誘惑する者、ヘビがやってきてエバに言います。「いいじゃありませんか。目が開けて、賢くなって、神のようになる。いいじゃありませんか。」と、誘惑します。  神でない者、神になってはいけない者が、「神のようになる」、これほど大きな誘惑はありません。エバが、そして、アダムが、この誘惑にまけて、頭では、わかっていたのですが、手が出て、これを食べてしまったのです。  ここに人間の本質が語られています。  私たちにも、アダムとエバが持っているのと同じの遺伝子(DNA)を持っています。毎日々々、このような誘惑に晒(さら)され続けているのです。  口では、「主よ、主よ」と言いながら、それが、口先だけになってしまっていて、自分が、わたしが、神の「僕」であるという関係を忘れしまって、自分が神になろうとしています。自分が、ご主人になってしまって、無意識のうちに、立場を逆転させてしまっている。そのようなことはないでしょうか。  神さまとのおつきあいが、長くなればなるほど、言いかえれば信仰生活が、長くなればなるほど、神さまとの関係に慣れ親しみ過ぎて、ご主人と、僕の、関係があいまいになってしまいます。  本来、神さまは、きびしい方で、強い方で、すべてのことをご存じの、全知全能の神さまです。いつも、生きて、働いておられる神さまであることを、私たちは知っています。しかし、いつの間にか、私たちは、その神さまを蔑(ないがしろ)にし、自分のレベルにまで引きずり下ろしてしまっているようなことはないでしょうか。  主である神さまを無視し、神を恐れない。神を神としない、そして、いつの間にか、自分が神のようになってしまっています。 イエスさまは、そのことを警告しておられるのです。  自分が、自分が、と、毎日の生活の中で、自分のことしか考えない、自分の名誉や野心や欲望を満足させることしか、考えられない人は、いつの間か、自分が主になり、神になってしまっています。お金や物に執着している人、寝ても覚めても、自分の得になることばかり考えている人、それは、お金や物を、神にしてしまい、偶像崇拝に陥り、やはり、ほんとうの「主」から離れてしまっているのです。  神さまに、お祈りをしていても、いつの間にか、自分の思いを神さまに、押しつけているだけになってしまい、「あなたが、わたしの神さまなら、私のいうことを聞くべきでしょう」と言わんばかりに、神さまに迫り、神さまに強制したり、神さまを脅迫するようなことを言って、それがお祈りだと思っていることがあります。  頭では、わかっているつもりなのですが、どちらが、主で、どちらが、しもべなのか、わからなくなってしまっていることは、ないでしょうか。私たちが、どんなお願い事をしても、すべて最後には、「どうぞ、あなたのみ心のようになりますように」と祈りたいと思います。  神の国、天国を知るということは、神さまを絶対的な主とし、私たちは、神さまの絶対的な支配を受ける「しもべ」であることを、はっきりさせることです。  その時こそ、神さまの支配が完全に行われます。私たちが、「ご主人さま、ご主人さま」と言って、たとえ疑似的な関係ででも、ママゴトのような関係ででも、瞬間的にでも、自分が「ご主人さま」になって、かしづかれたい、服従されたい、仕えられたい、神さまのように扱われたいと、思ってはならないのです。  そして、決して、その誘惑に陥らないように気をつけなければなりません。  神さまは、主と僕、神と私たちのほんとうの関係を教えるために、そのひとり子をこの世にお遣わしになりました。そして、その方を十字架に架けて、その命を与え、神さまの恵みと愛を示して下さいました。  教会の目的、教会の使命は、人々の「いやしと救い」にあります。それは、イエス・キリストが、人々をいやし、ほんとうの救いをお与えになったからです。  教会がその使命を果たすためには、その大前提として、まず、神さまと、私たちとの関係が、いつも正しくなければなりません。  私たちは、無意識の内に、人を裁いてしまっていることがあります。私たちが人を非難し、人を憎しみ、人を裁いている時、私たちは「自分が神になっている」、「自分が神のようになっている」ということです。それは自分で自分を絶対化している時だということです。  イエスさまが、私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れ合うことができたとき、ほんとうに、仕え合うことができます。そこに愛があります。  教会の中では、私たち一人一人に、愛が充ちていなければ、教会の使命は果たせません。神さまを知らない人々に、神さまを証しすることはできません。  私たちは、いつも神さまに感謝し、神の栄光をほめたたえ、生涯、神に奉仕し、服従する者でありたいと願っています。  そして、「わたしどもは、取るに足りない僕です。ただ、しなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)と、ほんとうの主、私たちの主に、申し上げることができる毎日を送りたいと思います。  〔2019年10月6日 聖霊降臨後第17主日(C-22) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕