義とされる人
2019年10月27日
ルカによる福音書18章9節〜14節
◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「2人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の10分の1を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
イエスさまは、「自分は正しい人間だと、うぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、一つのたとえ話をされました。このお話の中に、二人の登場人物がいます。
ひとりは、「ファリサイ派の人」と言われる人で、もうひとりは、「徴税人」でした。
ファリサイ派とか「パリサイ人」という言葉は、みなさんは、よく聞いておられる言葉だと思いますが、イエスさまの時代、ユダヤ教が、イスラエルを支配していた時代に、「サドカイ派」と並んで、ファリサイ派は、ユダヤ教の大きな一派をなしていました。「ファリサイ」とは、「分離された人々」という意味のギリシャ語です。
サドカイ派は、エルサレムの神殿を中心にした、祭司たちの一派で、モーセの律法の中でも、とくに神殿での儀式や習慣について、こだわっている一派でした。
これに対して、ファリサイ派は、イスラエルの各地にある会堂で、律法学者を中心に、民衆に対して律法を守ることを教え、律法を守らない、律法を守れない人々から「離れて暮らす」一線を画して生活している人たちでした。
イエスさまが語られるたとえでは、このファリサイ派の一人が登場します。
一方、もう一人の登場人物は、「徴税人」と言われている人でした。日本語では、「取税人」とも訳されていて、もっと正確に言えば、「税金取り立て請負人」(tax collector)という意味です。当時、イスラエルは、ローマ帝国の支配を受けていて、ローマの役人の下で働く、ユダヤ人の役人でした。イスラエル各地の税金徴収権を、買い取ってユダヤ人から、税金を取り立て、利益を得る仕事をしていました。
異邦人であるローマの役人の手下として権限をふるい、間に入って暴利をむさぼる人たちとして、同胞のユダヤ人からは、嫌われ、罪人のレッテルを張られ、憎まれていました。
イエスさまは、このように話し始められました。
「お祈りするために、2人の人が、神殿にやって来た。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」と。
その中の一人が、エルサレムの神殿で、立ち上がって、心の中でこのように祈りました。
「神様、わたしは、ほかの人たちのように、利益をむさぼり奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは、律法を守って、週に2度断食し、全収入の10分の1を、献金しています」と、祈りました。
そして、ふと、横を見ると、そこに、「税金取り立て業」を営む、徴税人がいます。
ファリサイ派のユダヤ人は、徴税人が、はるか向こうにいて、祈っているのを見て、「あの徴税人のような者でないことを感謝します」と、胸を張って祈りました。
ところが、一方、この徴税人は、神殿の遠くに立って、目を天に向かって上げられない、うつむいたまま、胸を打ちながら祈っていました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。罪人のわたしを憐れんでください」と、祈っていました。この言葉の中には、わたしには、良い所は少しもありません。正しいことは何も出来ていません。わたしは「罪人」です。「神さま、このような罪人であるわたしをあわれんでください」という祈りです。
イエスさまは、このように、ファリサイ派の一人の祈りと、徴税人の祈りを例にあげて、このたとえの2人の登場人物の、どちらの祈りが、神さまに届いているか、どちらが、神さまから受け入れられていると思うかと、弟子たちや、そこに居る人たちに問われました。
イエスさまのたとえのお話は、まだ続きます。
「ふたりとも、神殿から、それぞれの家に帰ったのだが、「神さまから義、正しい者とされて、家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。」
そして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。
この「義とされて」の義という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「ディカイオー」という言葉です。それは、「義と認める」、「正しいと宣言する」、「解放する」という意味の動詞です。それは、「罪と宣言される」の反対語で、「正しいとされる、無罪とされる」という裁判用語、法廷用語からきています。
誰が、人を裁くのでしょうか。それは神さまです。
このたとえに登場した二人は、同じように、神さまに、祈りをささげました。そして、その神さまから、義とされた、正しいとされた、神さまに受け入れられたのは、どちらだったのか。それは、「徴税人の祈り」だったのだと、イエスさまは断定されました。
それでは、なぜ、徴税人が義とされ、神さまから受け入れられ、ファリサイ人の方が、神さまの前で、正しくない、神さまから受け入れられない人だと、言われたのでしょうか。
ファリサイ派の人と、徴税人の違いは、どこにあったのでしょうか。それは、日本語で言えば、語呂合わせのようですが、ほんとうの「信心家」と、「自信家」の違いです。神さまに向かって、真剣にお祈りをしたということにおいては、ファリサイ派の人も、徴税人も同じでした。その意味では、二人とも熱心な信心家でした。
しかし、誰よりも熱心に律法をすべて守っています。週に2度も断食をしています。全収入の十分の一の献金をしていますと、神さまの前に、自信満々の声を上げ、胸を張って、自分の信仰を誇りました。その姿は、自分のみを高くする傲慢そのものです。
これに対して、徴税人の祈りは、神さまの前に、自分自身の価値は、何一つ持たない、自らを罪人とし、神さまの前に顔を上げることもできない、ただ、ただ、神さまの前に、憐れみを乞い、恵みを求めるだけの姿でした。
イエスさまが、自信満々のファリサイ人には、一顧だにせず、価値のない者とされた理由は、ここにあります。
神さまは、人が、御自分にのみ、より頼み、神さまの前で、自分で、自分の無価値を認めるときにのみ、その人の価値を認めて下さるということです。
神さまは、人々が神さまだけに依り頼み、神さまの前で、自分の無価値、何も価値がないことを認める時にのみ、その人の価値を認めて下さいます。
聖パウロは、フィリピ教会の信徒に宛てた手紙に、このように書き送っています。(3章5節〜16節)
「わたしは、生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人(すなわちユダヤ人)の中のヘブライ人(ユダヤ人)です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では、(かつては)教会の迫害者(でした)、律法の義については非のうちどころのない者でした。
「しかし、わたしにとって、(今まで)有利であった(誇りであった)、これらのことを、キリストのゆえに(キリストに出会ったために)、(今は)損失(マイナス)と、見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では、他の一切(生い立ち、ファリサイ人であったこと、今まで誇って来たこと)を、損失(マイナス)とみています。
キリストのゆえに、わたしは、すべてを失いましたが、それらを、塵あくたと、見なしています。(それは、)キリストを得、キリストの内にいる者と、認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義(正しさ、救い)ではなく、キリストへの信仰による義(ほんとうの正しさ、ほんとうの救い)、信仰に基づいて神から与えられる義が、(わたしには、それが)あります。
わたしは、(わたしも)、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
さらに、パウロは言います。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。(それは)自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が、キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
だから、わたしたちの中で、完全な者は、(完全になりたい者は)、誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは、(今、)到達したところに基づいて、進むべきです。」
パウロの手紙を、長々と読みましたが、今日与えられた福音、イエスさまのメッセージから、信仰者パウロの証しを、私たちの証しとしたいと思います。
〔2019年10月27日 聖霊降臨後第20主日(C-25) 聖光教会〕