神殿の崩壊

2019年11月17日
ルカによる福音書21:5-19  5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」  イエスさまの時代には、エルサレムには、立派な神殿がそびえ立っていました。  イエスさまがお生まれになる千年前、ダビデが、ユダヤの王に即位しました。そして、ダビデ王の後を継いだのが、ソロモン王ですが、このソロモン王が、エルサレムの小高い地に、最初の神殿を築きました。7年間の歳月をかけて建造され、石と大理石、そしてダビデ時代からの金銀の財宝をもって建てられた、初めての立派な建物でした。この神殿は、第一神殿と呼ばれています。  その後、長い歴史を経て、紀元前587年には、ユダヤの国は、バビロニアのネブカデネツァル王の軍勢によって滅ぼされ、エルサレムの神殿も完全に破壊されてしまいました。  そして、エルサレムの主だった人たちは、皆、バビロニアに連れていかれ、捕囚として、捕虜として、苦しい日々を送りました。約50年間、捕囚時代を過ごしたのち、ペルシャの国のキュロス王によって解放され、捕らえられていたユダヤ人たちは、念願のエルサレムに帰還しました。  解放されてイスラエルに帰ってきた人々が、まず着手したのは、破壊された神殿を復興することでした。バビロニア生まれのユダヤ人ゼルバベルの指揮のもと、帰還したユダヤ人は、力を合わせて神殿を再建し、紀元前515年に、これが完成しました。これを、第二神殿、またはゼルバベル神殿と呼ばれます。ソロモン時代の第一神殿に比べると、規模の小さな建物でした。  時代が代わって、地中海沿岸の国々を、ギリシャ、そしてローマが支配する時代となり、イエスさまがお生まれになったはこの時代でした。ユダヤの国は、ローマの属国となり、ローマの皇帝の支配下にありましたが、ヘロデが、ローマの皇帝に信任されて、ユダヤの王となりました。  このヘロデが、王となって17年目、イエスさまがお生まれになる約20年前に、エルサレム神殿の修復工事が始まりました。10年かかって工事が行われ、なお、追加工事が続いていたと言われます。ソロモンの神殿以上に大規模で、美しい神殿でした。エルサレムの高台に建てられ、周囲は、円柱と美しい門で囲まれ、その白く輝く大理石の美しさは、遠く数キロ離れた所からでも見ることができたといいます。神殿の敷地は、庭園を含めて、エルサレムの街全体の面積の6分の1を占めていました。地図で比べてみますと、京都の二条城とほぼ同じぐらい広さだったことがわかります。  このヘロデの神殿は、第三神殿、と呼ばれ、当時、全国から集まるユダヤ人の参詣者で、いつも賑わっていたと言います。  神殿について、長々と話しましたが、ユダヤ人にとって、神殿とは、神が住んでおられる所と信じ、犠牲をささげる所であり、信仰生活や、さまざまな祭りの中心となっていました。この神殿とは、私たちが知っている仏教のお寺や神道の神社のようなものではありません。ユダヤ教では、偶像崇拝は厳しく禁じられていますから、神さまを表す像や絵画はありません。神殿の奥には「至聖所」と言われる神さまが住まわれる部屋があります。さらに拝殿(聖所)があり、燔祭の祭壇(犠牲を焼く炉)があって、捧げられた犠牲を焼く所があります。石の塀が巡らしてあって、8つの門があり、祭司の庭、男子の庭、婦人の庭、そして異邦人の庭が広がっています。神さまの住まい、神さまが居られる所、神さまが祈りや犠牲を、捧げ物を受け容れてくださる所として、その当時のユダヤ人は、この神殿に特別の思い入れや誇りを持っていました。旧約聖書の「レビ記」には、そこで行われる礼拝や捧げ物の手続きなどが詳しく記されています。  ある時、ある人たちが、この美しく、立派な建物、大理石と金銀の奉納物で飾られた、このエルサレムの神殿を見上げながら話していました。(ルカ21:5)  マルコによる福音書では、「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が、『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」と言ったと記されています。  これを聞いて、イエスさまは、言われました。  「あなたがたは、この建物、この神殿に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と。  神殿は、すべて石造りです。石の上に石が残っていないというのは、この神殿が取り壊され、崩れ落ちてしまっていることを意味します。そんな日が来る。こんなに壮大で立派な美しい建物が、この神殿が、完全に破壊される日がくると、予言しておられるのです。  これを聞いた人たちは、突然、こんなことを言われて、驚いたに違いありません。  現に、実際の歴史上の出来事を見ますと、西暦70年、イエスさまが亡くなられて約40年後に、このエルサレムは、ローマ軍によって攻め込まれ、完全に破壊されました。  ローマ軍に最後まで抵抗したユダヤ人の一派、熱心党が、最後まで戦い、最後にはこの神殿に立てこもり、抵抗しましたが、この神殿、ヘロデの神殿、第三神殿は、完全に破壊されてしまいました。  ルカが、「ルカによる福音書」が書かれたのは、西暦80年頃だと言われていますから、たぶん、ルカは、エルサレムの神殿が、すでに破壊されていたことを知っていたことになります。そのことを知った上で、イエスさまが生きておられた50年前にさかのぼって、イエスさまの予言を伝えたことになります。  ルカは、その上に立って、終末のしるしとして、「惑わされないように気をつけなさい」と言って、イエスさまが語られた「終末のしるし」、「世の終わり」の出来事として伝えています。にせキリストが現れる、戦争や暴動が起こる噂が立つ、国や民族が対立する、地震や飢饉、疫病が起こり、恐ろしい現象や天のしるし、迫害、投獄、いわれのない尋問、親、兄弟、親族、友人の関係の中で、裏切り、殺人、憎しみが起こる、など、など、世の終わりだと思わせるようなことが起こると予言されました。  年配の方々は、ご自分の生きて来られた生涯をふり返ってみて、長い人生の中には、1度や2度は、思わぬ大事件に出会い、さまざまな恐ろしい出来事を体験したことがあるのではないでしょうか。  戦争を体験された方もあると思いますし、地震や台風や大火事に遭って、恐い体験をされた方々もおられるだろうと思います。このような転変地異だけでなく、病気や大怪我をして死ぬような思いをしたことがある方もおられるのではないでしょうか。身近な愛する人を亡くしたり、事業に失敗したり、急に、何もかもうまくいかなくなったりするようなこともあったかも知れません。年配の方々だけではなく、若い方々にもそのような経験を持っておられる方もおられることと思います。  そのような、日常を越えた大きな出来事、事件に出会うと、私たちは、異常な心理に追い込まれ、普通ではない、パニック状態に陥ることがあります。その時には、平常な時には考えられないような異常な行動を取ったり、考えられないようなことを口走ったりしてしまいます。  日頃偉そうなことを言っていても、そのような時にこそ、私たちの言葉や行動を通して、また思いや考えを通して、私たち自身が試されます。私たちの信仰生活でも、何か大変な出来事に出会った時、私たちの「信仰」が、ほんものか、そうでないかが、試される、日頃は、気づかなかった弱さが現れたりします。  イエスさまは「世の終わりは、すぐには来ない」(9節)と言われ、そして、さらに、語られました。 「その時こそ、あなたがたにとって、あなたがたの信仰を証しする機会となる。だから、前もって何を言おうか、どう言おうかなどと、弁明の準備をする必要などない。そんなことは必要がないと心に決めなさい。あなたがたにどんなに反対する者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたし(イエス・キリストが)が、あなたがたに授けるからである。」そして、最後に言われます。  「また、わたし(イエス・キリスト)の名のために、あなたがたが、すべての人から憎まれるようなこともある。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も、神さまの許しがなければ、自分たちの思うようにはならないのだ。」  「そのことを忘れないで、徹底的に忍耐することによって、あなたがたは命をかち取りなさい。」  聖書が書かれた時代、初代教会の信徒たちにとって、目の前にある最大の問題は、天変地異よりも前に、キリスト者であることによって起こる「迫害」を体験することになるだろうと言われます。イエス・キリストにすべてをささげ、この方に従うか、この方から離れるか、そのことが迫られる時が来る。命を賭けて選ぶことが迫られる時、ほんとうにあなたがたが試される時、試練の時が来る。その時に備えなさい。永遠の命を勝ち取るために、徹底的に忍耐しなさいと、教えられました。  日本の国でも、歴史を振り返ってみますと、キリシタンの迫害が、長く続き、大勢の人々が死んだ時代があります。  また、太平洋戦争では、クリスチャンというだけで、敵国と通じているといって捕らえられ、牢獄につながれた人たちもいました。長い歴史の中には、実際にそのようなことが起こっています。  しかし、今、私たちが生きているこの時代、この国では、「信教の自由」が守られることになり、今、クリスチャンであるということで、公の場で、迫害されたり、何かを強制されたりするようなことはありません。  しかし、かつて、どこかで、聞いたことがあります。 「キリスト教を滅ぼすには、剣はいらない。まわりが寛容にすれば自分で滅びる」と言われたことがあります。  2千年のキリスト教の歴史をふり返ってみても、キリスト教は、迫害の時代、難問にぶつかっている時にこそ、その時代のクリスチャンは、ピンと背筋が伸び、そして強靱な信仰、真剣に信仰生活を守り、信仰に生きてきたように思います。他方、キリスト教が、誰からも保護され、暖かく寛容な空気の中におかれると、聖職者も信徒も、そして教会全体が、堕落してしまい、生き生きとした姿がなくなり、魅力がなくなってしまいます。  私たちにとって、実は、今、何よりも大きな迫害の中にあるのかも知れません。それは迫害がないという迫害です。  私たちが信仰生活を続ける上で、誰からも自由と寛容、暖かく、居心地のよい状況に置かれると、堕落が始まります。 それは、言いかえれば、イエスさまが、私たちに求めておられる神の国に入ろうとすることから遠ざかり、ほんとうの喜び、ほんとうの救いの手から漏れてしまうことになります。自分の信仰の状態をチェックできるのは、自分自身だけです。  パウロは、コリントの信徒への手紙一3章16〜17節に、このように書いています。 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と。  今は、エルサレムに神殿はありません。実は、私たち、あなたがた一人一人が、神の神殿なのです。神の霊が、私たちの中に、住んでおられるからです。しかし、壮大で美しく飾られたエルサレムの神殿、人びとが誇りに思った神殿も、たびたび破壊され、建て直されなければなりませんでした。  今、私たち自身、私たち一人ひとりが、見かけだけではない、神の聖なる神殿であり続けたいと思います。  最後に、イエスさまは、言われます。  「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(21:19)                   於・聖アグネス教会