ろばに乗った王
2019年11月24日
−−王であるキリストの主日−−
ルカによる福音書19章29節〜38節
そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。」
教会の暦では、今年は、6月9日に「聖霊降臨日」を迎え、その後、「聖霊降臨後第1主日」、「聖霊降臨後第2主日」と続き、先週の主日は、「聖霊降臨後第23主日」と呼ばれる主日でした。 今日の主日は、「降臨節前主日」と名付けられ、来週の日曜日、主日からは「降臨節」に入ります。
ご存知のように、降臨節は、「アドベント」と呼ばれ、キリストの来臨、到来、降臨を記念し、キリストの誕生を待ち望む期間です。教会の暦では、次の日曜日、主日から、新しい1年が始まります。
今日の主日、「降臨節前主日」は、このアドベントを迎える準備の主日なのですが、それと同時に、特別の意味を持った主日でもあります。一年最後の主日、この降臨節前主日は、特別に「王であるキリストの主日」と呼ばれる祝日でもあります。
この祝日は、イエス・キリストが、王として、全世界を支配しておられること、それが目に見えるかたちで実現し、全人類が、その王国で平和の内に生きることを望むことを願い祝う日とされています。
30年ほど前から始まった、祈祷書改正の流れの中で、「王であるキリスト」、「キリストの支配」の主日として、礼拝の中で読まれる聖書日課(特祷、旧約聖書、詩篇、旧約聖書、使徒書、福音書)に、「王であるキリスト」を祈念する個所が選ばれています。
「王であるキリスト」、この言葉を、頭に置きながら、今日の福音書に、もう一度、目を向けてみたいと思います。
イエスさまは、ご自分は、苦しみを受け、まもなく死ぬであろう、そして3日目によみがえるであろうということを、3度も、弟子たちに予告されました。その直後から、顔を真っ直ぐにエルサレムに向け、弟子たちと共に、エルサレムに向かって歩き始められました。
エリコという町を通り、さらにオリブ山のふもと、エルサレムの少し手前の町ベタニヤとベトファゲという村に近づいた時、イエスさまは、2人の弟子たちに、不思議なことをお命じになりました。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と言われました。
2人の弟子が、出かけて行きますと、イエスさまが言われたように、小さなロバ、子ロバがつないであるのを見つけたました。そこで、そのロバをつないでいる綱をほどこうとしますと、そのロバの持ち主が、「なぜ、その子ロバの綱をほどくのか」と言いました。
2人の弟子たちは、イエスさまが言われたとおり「主がお入り用なのです」と言いました。それだけで、そのロバの持ち主の了解が取れたのでしょうか、弟子たちは、その子ロバを連れて、イエスさまのところに戻って来ました。
そして、弟子たちが、そのろばの背中に自分たちの服をかけると、イエスさまは、それにお乗りになりました。
さらにエルサレムに近づくと、エルサレムの人々が、イエスさまを出迎え、自分たちが来ていた服を、それぞれ、ぬいで道に敷きました。イエスさまがオリーブ山の下り坂にさしかかった時、弟子たちや、イエスさまについて来た人びとは、みんなで声高らかに神を賛美して始めました。
弟子たちもそうですが、そこに集まった人々は、このように言ったのは、イエスさまが、エリコで、盲人を癒されたこと、また、同じエリコで徴税人ザアカイが回心したことなど、イエスさまが、それまで行われた数々の奇蹟を目の当たりにしたことを、また、その噂を聞いた人々が、そんな出来事を、思い出して、賛美したのではないでしょうか。
この方こそ、主のみ名によって来られる方だと、喜びの声を上げました。そして、前を行く者も、後に従う者も声を揃えて叫びました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
これは、詩編118編24節〜27節にある賛美と祝福の歌声です。
「今日こそ主の御業の日。
今日を、喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか、主よ、わたしたちに救いを。
どうか、主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは、主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。」
このようにして、イエスさまは、迎えられ、エルサレムの街に入られたという出来事です。
この場面については、ルカによる福音書だけではなく、マタイによる福音書も、マルコによる福音書にも、同じようにその光景が記されています。
マタイとルカは、マルコによる福音書を見て書いたと言われていますが、しかし、この3つの福音書は同じ出来事について、書いていながら、その個所を読み比べてみますと、少しずつ違っているところがあることに気づきます。
マルコとマタイでは、大勢の群衆が道に自分たちの服を敷き、野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いて、「ホサナ、ホサナ」と叫びながらイエスさまを迎えたとあります。
これに対して、ルカは、弟子たちが道に服を敷き、弟子たちの群れが声高らかに神を賛美したと記されています。
弟子たちがあまりに、騒ぐので、これを見ていた群衆の中からファリサイ派のある人たちが、イエスさまに向かって「先生、お弟子さんたちを叱ってください」と言ったほどだったことがわかります。(19:39、40)
イエスさまは、ロバに乗って、エルサレムに入られました。なぜ、わざわざロバに乗られたのでしょうか。その光景は、何を意味しているのでしょうか。
旧約聖書のゼカリア書にこのような言葉があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は、神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌(め)ろばの子であるろばに乗って。
わたしは、エフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」(9:9-10)
今、この預言が成就されようとしているのだ、今、それが実現しているのだということを示し、ご自分が誰であるか、何者であるかということを、イエスさまは、弟子たちに教えようとしておられます。
預言者ゼカリアが、預言する救い主、王の姿は、決して、立派な馬にまたがり、多くの兵士たちを引き連れて、胸を張って、入城する、凱旋将軍のような姿、堂々とした姿で迎えられるような王ではありませんでした。
小さなロバに乗って、足が地に着きそうな格好の悪い姿で、とぼとぼと歩いてくる、そういう姿で来るだろうと、ゼカリアは、預言しました。
その方は、神に従い、神から勝利を与えられた者だ。その方は、決して威張ったり、高ぶったりすることはなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗ってやってくる。
その方が現れる時、神は、エフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓矢は絶たれ、諸国の民、人々に、平和が告げられる。ほんとうの平和は、兵隊や、軍馬、戦車、弓矢によって、もたらされるのではない。
この方によって、そのような戦力や兵士は、力を失い、世界にほんとうの平和がもたらされると、ゼカリアは、預言していたのです。
さらに、ルカが言いたいことは、エルサレムの市民や、群衆は、何もわかっていない。その後、たった一週間が経った後には、扇動された群衆、エルサレムの市民たちは、イエスさまに対して「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んだではないかと、言いたいのです。
小さなロバに乗ったイエスさまについて歩いていた弟子たちの一群は、「自分が見たあらゆる奇蹟のことで喜び、声高らかに神を賛美した」とあります。(19:37)
弟子たちも、詩編を歌い、賛美と喜びに満ちて、イエスさまを囲みながら、エルサレムの城門を入って行きました。
しかし、弟子たちが、「主の名によって来られる方、王に」と叫び、「見よ、あなたの王が来る。」という預言者ゼカリアの預言を知っていたとしても、その王が、ほんとうに王として、神の栄光を表し、王が王となられたのは、人びとから裏切られ、侮辱を受け、鞭打たれ、十字架に釘つけにされた、その瞬間であったことを、その時には、まだ誰も知りませんでした。
今日の主日は、「王としてのキリスト」、「ほんとうの支配者であるキリスト」について、思いを馳せながら、私たち一人一人が、キリストとの関係を、深くふり返る日です。
私たちは、果たして、イエスさまのほんとうの姿を、ほんとうに知っているでしょうか。
今日の特祷をもう一度、見てみましょう。
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子によって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように。」このように祈りました。
私たちは、イエスさまという方に、何を見ているでしょうか。イエスさまに何を求めているでしょうか。
正しく、しっかりと、イエスさまを見つめたいと思います。
於 ・ 聖 光 教 会