愛は律法を全うする。
2019年12月01日
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
(ローマの信徒への手紙13章8節〜14節)
教会の暦では、今日の主日、「降臨節第1主日」から、新しい1年が始まります。世間の元旦より、ちょうど、1ヶ月早く「新年おめでとうございます」と言う日です。
毎週の主日礼拝では、旧約聖書、使徒書、福音書と、3ヶ所、聖書のみ言葉が朗読されます。福音書は、イエスさまの伝記というか、イエスさまの歩まれた道をたどり、「イエスさまは、こう言われた」とか、「こんなことをなさった」ということが、直接、語られている内容です。
新約聖書27巻の内、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書以外の23巻、「使徒言行録」から「ヨハネの黙示録」までは、「使徒書」として読まれます。そこには、使徒たちが書き送った手紙や、イエスさま亡きあとの、弟子たちやキリスト教信徒の活動の記録などが記されてうます。
このようにして、3年周期で、主日の聖餐式や「み言葉の礼拝」において、そのシーズンにふさわしい聖書の個所が選ばれ、読まれることになっています。
私は、これまで、主に、福音書をテキストとして、主日礼拝の「説教」をしてきましたが、「使徒書」も、旧約聖書も、だいじだと思いますので、今日の主日、A年の初めから、使徒書を中心に、み言葉に耳を傾け、説教をさせて頂こうと思います。
前置きが長くなりましたが、早速、先ほど、読んで頂いた今日の使徒書、ローマの信徒への手紙13章8節以下に、もう一度、目を向けて頂きたいと思います。
今日の使徒書は、パウロが、ローマの教会の信徒に宛てた手紙ですが、2つのテーマからなっています。
一つは、13章の8節から10節までは、「愛は、律法を全うする」と述べて、パウロは、「隣人愛」の大切さについて述べています。
そして、もう一つのテーマは、13章11節から14節までで、「救いは近づいて来ている。眠りから覚める時は、すでに来ている」という、パウロの警告が記されています。
ご存知のように、パウロという人は、イエスさまの弟子たちのように、イエスさまに、直接、お会いしたり、教えを受けたりしたことはありません。
イエスさまは、西暦30年の春ごろ、十字架に掛けられて亡くなりました。パウロが、キリスト教に出会ったのは、それから約7年が経ったのち、西暦37年頃でした。
それまでは、パウロは、熱心なユダヤ教信徒で、ファリサイ派の一人でした。キリスト教信者を見つけては捕らえ、牢屋に入れたり、殺したりする、迫害する側の立場の血気盛んな青年でした。
そのパウロ(サウル)が、ダマスコへ向かう途中、路上で、「サウル、サウル、どうして、わたしを迫害するのか」という声が、天から聞こえ、サウル、のちのパウロは、その場に倒れ、目が見えなくなるという、不思議な体験をしました。(使徒言行録9:1-9)このような聖霊体験をして、回心したパウロは、その後、熱心なクリスチャンになり、キリスト教の伝道者として、キリストのために働く人となりました。
西暦46年ごろから、約10年間、地中海沿岸の国々、各都市を巡って、3回も、苦難の伝道旅行をし、あちこちに、教会を建て、クリスチャンの集会を設けました。その間、大都市、ローマへは、行かなかったのですが、最後には、ローマで捕らえられ、西暦64年、ローマの地で殉教しました。
ローマの信徒への手紙は、ローマの教会の信徒とは面識ははないのですが、ローマの教会の状況を聞き、ぜひ一度、ローマへ行きたいと、切望している時期に書き送ったものだと言われています。
ローマへの手紙の1章9節に、このように書いています。
「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら、心から神に仕えています。その神が、証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかして、いつかは神の御心によって、あなたがたのところへ行ける機会があるように願っています」と。(1:9-10)
さて、今日の使徒書ですが、ローマの教会の信徒に宛てて書いた手紙の一部です。
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を、全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほか、どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は、隣人に悪を行いません。だから、愛は、律法を全うするものです。」(13:8-10)
その当時、ローマの教会は、キリスト教の教会と言っても、その中心になっていたのは、ローマに住むユダヤ人でした。 そのユダヤ人たちが信じる神は、アブラハムが信じ、イサクが信じ、ヤコブが信じた唯一の神であり、さらに生き方、毎日の生活の基準となっていたのは、モーセを通して与えられた「律法」を守ることにありました。故郷ユダヤの国を離れて、遠くローマに住み、生活していても、ユダヤ人が、クリスチャンになっても、律法中心主義から抜けきれず、解放されないままでした。
パウロは、このローマの信徒への手紙の前、5章8節に、このように言っています。
「しかし、わたしたちが、まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって、神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ5:8,9)
「ローマの信徒への手紙」より、あとで書かれた福音書ですが、イエスさまが語られた言葉として、ヨハネ福音書の記者は、このように伝えています。
「あなたがたに、新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34、35)
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」(13:8)この「借り」とは、「オフェイレイン」というギリシャ語ですが、この言葉には、「借り」とか、「義務」という意味があります。
パウロは、ローマに住んでいるユダヤ人が、なお、ユダヤ教の律法にこだわり、束縛されていると伝え聞いて、ほんとうのキリスト教信徒となるためには、「互いに愛し合うこと」、そのことが最も大切な信仰であり、生き方であるということを示そうとしています。イエスさまは、十字架の死によって、私たちに神の愛をお示しになりました。
その恵みを受けた者、私たちは、「互いに隣人を愛しなさい」という、キリストによる新しい掟、律法を受けたのです。だから、まずそれだけを、守りなさいと、パウロは、告げています。
さらに、今日の使徒書の2つ目のテーマについても、パウロが言おうとしているところを、聴いてみたいと思います。
「あなたがたは、今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(13:11-14)
この個所こそが、「降臨節」を迎えるために、選ばれた聖書の言葉だと思われます。間もなく、イエスさまのご降誕を記念する日を迎えます。心の目をしっかりと見開いて、その時を迎えなさい。「あなたがたが、眠りから覚めるべき時が、すでに来ています。」(13:11)と記しています。
14節に「主イエス・キリストを身にまといなさい」と、パウロは言います。イエス・キリストを身にまとうとは、どういうことでしょうか。同じパウロが、ガラテヤの信徒への手紙3章26節以下に、このように書いています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けて、キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
野球や、サッカーや、ラグビーなど、戦っている選手の姿を思い浮かべます。彼らは、みんな、チームの名前、ロゴ・マークが入ったユニフォームを着て、戦っています。
それと、同じように、私たちも、目には見えませんが、「イエス・キリスト」、「神の子」とチーム名が入った、ユニフォームを、着ているのではないでしょうか。
毎日、このユニフォームを着て、働いている、生活している、生きている姿を、想像してみて下さい。元気がいっぱい出てくるような気がします。
降臨節は、イエスさまが、この世にお生まれになることを待ち望み、お迎えする心の準備の時です。有意義に過ごしましょう。
〔2019年12月1日 降臨節第1主日(A年) 京都聖ステパノ教会〕