互いに相手を受け入れなさい。
2019年12月08日
ローマの信徒への手紙15章4節〜13節
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」
と書いてあるとおりです。また、
「異邦人よ、主の民と共に喜べ」
と言われ、更に、
「すべての異邦人よ、主をたたえよ。
すべての民は主を賛美せよ」
と言われています。また、イザヤはこう言っています。
「エッサイの根から芽が現れ、
異邦人を治めるために立ち上がる。
異邦人は彼に望みをかける。」
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
先ほど読んで頂きました、今日の使徒書、ローマの信徒への手紙15章7節、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」というこの言葉について、ご一緒に考えてみたいと思います。
パウロが、この「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、西暦56年の末か、57年の春頃だっただろうと言われています。パウロは、地中海沿岸の各地を巡り、教会の基礎を築いていきました。しかし、新しく生まれたばかりの教会では、つぎつぎといろいろな問題が起こり、パウロは、それに対して、教会の信徒宛に手紙を書きました。
パウロは、3回にわたって、地中海沿岸を伝道旅行をしましたが、ローマ帝国の首都で、最大の都市であるローマには、一度も立ち寄っていません。
当時、ローマには、約4万人のユダヤ人(ディアスポラと呼ばれる離散したユダヤ人)が、住んでいたと言われます。かつて、祖国イスラエルで、イエス・キリストの福音に触れ、クリスチャンとなったユダヤ人が、ローマに移住し、キリスト教信徒の集会を開き、教会となっていきました。このローマの教会でも、問題が起こっていました。
それは、ギリシャ人やローマ人、または、その他の地方から来て、クリスチャンになった人々と、ユダヤ人クリスチャンとの考え方や生活の習慣の違いから、互いに受け入れられない対立が起こりました。ユダヤ人は、クリスチャンになっているとはいえ、アブラハムの子孫であることを意識して、歴史を引きづり、モーセの律法や細かい掟を守ることにこだわります。生活習慣や食べ物にいたるまで、他の国から来ている人々にも、掟を守ることを強要していました。
パウロは、そのような問題が、ローマの教会の中にあることを伝え聞いて、ローマの教会宛てに、手紙を書きました。それが、この「ローマの信徒への手紙」です。
イエス・キリストの名によって立てられた教会でありながら、信徒同士で対立し、いがみあっている、そのような教会の状況に対して、パウロは、何が一番だいじなのか。どのようにあるべきなのかを、キリスト教信仰の根本に立って、ここに、示そうとしています。
今日の使徒書の少し前の個所、ローマの信徒の手紙の14章1節以下に、パウロはこのように書いています。
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと、信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです(宗教的な習慣による菜食主義者)。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(14:1〜3)
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは、主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について、兄弟が心を痛めるならば、あなたは、もはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(14:13〜15)
パウロは、このように、繰り返しています。
そして、今日の使徒書ですが、15章7節に、「だから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」と言います。
私たちが、社会生活、日常生活の中で、「人を受け入れる」、今、自分の前にいる「相手を受け入れる」ということの難しさと、大切さを、しみじみ感じることがあります。 夫婦、親子、兄弟、友人といえども、学校、職場、家庭等、すべての人々との人間関係の中で、それが、どのような小さな理由であろうとも、「受け入れられない」というところに問題が起こります。
私は、あちこちでよく言って回っているのですが、日本語の漢字の「愛」という字は、「受ける」の「受」の中に、「心」が入っています。辞書にはそのような解説はありませんが、私はこのように思っています。「愛」、「愛する」とは、「人の心を受ける」「受け容れる」ということだと思っています。人の言葉や訴えを、「ふん、ふん」と言って、ただ聞くだけではなく、語っている人の気持ち、心をしっかり受け容れることが、愛するということだと思います。
パウロは言います。「神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
「神の栄光のため」とは、神が神であるため、神さまがその力を発揮されるために、まず、キリスト・イエスさまが、あなたを受け容れてくださったのです。だから、あなたも、あなたの前にいる人を受け容れなさい。愛しなさいと、パウロは言います。このようなわたしのために、イエスさまは、十字架に掛けられ、罪をあがない、わたしのような者でも、受け容れてくださったのです。
「神の栄光のために、キリストが、あなたを受け入れてくださったのですから、あなたがたも、お互いに、相手を受け入れなさい。」と、パウロは言います。
このパウロの言葉を、しっかりと胸に受け止めながら、聖餐にあずかりたいと思います。
〔2019年12月8日 聖霊降臨後第2主日(A年) 大津聖マリア教会〕