「来るべき方は、あなたでしょうか。」

2019年12月15日
マタイによる福音書11章2節〜11節 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。   『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、   あなたの前に道  を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。  私たちの教会では、「教会暦」という、教会独自のカレンダーを持って居ます。教派によっては、歴史的な背景の違いから、教会暦を重んじる教会と、そうでない教会、教派があります。 カトリック教会や、正教(ギリシャ正教やロシア正教会等)、プロテスタント教会の中でも、聖公会やルーテル教会は、教会暦を大切に守り、教会暦に従って礼拝や行事を行っています。  「教会暦」の中心は、クリスマスと、イースターが、柱になって組み立てられています。これが中心となって、イエスさまのご生涯と、教えが、12ヶ月、1年の暦の中に、組み込まれ、学ぶようになっています。  この「教会暦」を守るということは、私たちの信仰生活に、「アクセント」、強調点を与えてくれます。  私たちは、毎日、神さまを信じ、神さまに感謝し、お祈りをささげ、希望と喜びを持って生活しています。  しかし、その生活も、これに慣れてくると、いつの間にか、感動が薄れたり、聖書の大切な教えにも、マンネリ化して、新鮮な気持ちを失ったりしてしまうことがあります。  そのような中で、主の御降誕を祝うとか、キリストの十字架とご復活に気持ちを集中するとか、教会暦にともなって行う礼拝、説教やさまざまな行事を通して、神さまに心を向け、新たな気持ちでイエスさまに、出会うことができます。  今年も、私たちは、間もなく、クリスマスを迎え、キリストのご降誕を祝います。  教会の暦では、クリスマスの前の4週間を「降臨節」(advent)と言い、キリスト誕生の日を迎える準備の期間としています。この「アドベント」は、ラテン語の「アドウェントゥス」から来ていて、来臨、到来、降臨を意味します。  日本語の「降臨」「来臨」「到来」という言葉は、身分の高い方が、来られる、出席するという意味を持つの尊敬語です。  この「降臨節」には、これを守りましょうという2つの意図、意味があります。  その一つは、神の子キリストが、ユダヤのベツレヘムにお生まれになった。人間の赤ちゃん、みどり子として、私たちと、同じ肉体を取って、お生まれになったという「来臨」です。  そして、もう一つは、人類の歴史の終わりに、キリストが、再び来られるという第二の降臨が予告されています。  今日の主日は、その「降臨節」の第3週目の主日ですが、今日の「福音書」として、今、マタイによる福音書11章2節から11節が、読まれました。  ヨハネという人については、ご存知だと思いますが、30歳ぐらいになったイエスさまが、初めて、人々の前に姿を現された時、ヨルダン川のほとりで、人々に罪の悔い改めを迫り、洗礼を施していました。その時、イエスさまも、このヨハネから洗礼をお受けになりました。  ところが、その後、ヨハネは、その時のユダヤ王ヘロデが、兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したという、あってはならない事件が起こり、バプテスマのヨハネが、不道徳であると、激しく、厳しく糾弾したことにより、ヘロデ王に捕らえられて、牢につながれていました。  そのヨハネが、牢の中で、イエスさまの噂を聞いて、自分の弟子を、イエスさまの所へ使いにやり、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を、待たなければなりませんか。」と、ヨハネは、弟子に、尋ねさせました。  ヨハネの弟子は、そのことを、イエスさまに伝えると、このようにお答えになりました。  「行って、あなたが、自分の目で見、耳で聞いていることを、ヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩き出し、重い皮膚病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死んだ人が生き返り、そして、貧しい人々には、神さまからの救いのメッセージ、福音が告げ知らされている(ではないか。)」と。そして、「わたしにつまずかない人は、幸いである。」と言われました。  イエスさまによって、人々に救いが約束され、神さまからのメッセージが語られている。そして、数々の奇跡が起こっている。「わたしは、何者であるか。何のために、この世に来たのか」自分の目で見て、耳で聞いて、自分で確かめて、それを、ヨハネに伝えなさいと、ヨハネの弟子に言いました。  バプテスマのヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか」と、尋ねに行かせました。  「来たるべき方」とは、誰でしょうか。どなたでしょうか。バプテスマのヨハネだけではなく、当時のユダヤ人、すべての人々は、預言者たちが預言した「救い主」が、現れることを待ち望んでいました。「来るべき方」の到来を待ち望んでいました。バプテスマのヨハネの質問は、イスラエルの民のすべての人々の思いを代表している言葉だったのです。  イエスさまは、「わたしが、その来たるべき方なのだ」と、はっきりと答え、現に、「良きニュース」「福音が語られ、奇跡が起こっているではないかと、その証拠を、はっきりと示されました。  「来たるべき方」というと、思い出すことがあります。  イエスさまが、エルサレムに迎えられる時、小さなろばに乗って、都に入られました。エルサレムの人々は、道に上着を脱いで敷き、棕櫚の枝を、打ち振って、「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と言って迎えました。(ヨハネ12:13)  エルサレムの市民は、「主の名によって来られる方に」と叫んで迎えました。しかし、その一週間後には、彼らは口をそろえて、「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と叫び、イエスさまを十字架につけて、殺してしまいました。  そして、「来臨」のもう一つは、人類の歴史の終わりに、キリストが、再び来られるという第二の降臨です。  マルコによる福音書13章3節以下に、このような個所があります。  12人の弟子の中のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、イエスさまにひそかに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが、すべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と。  これに対して、イエスさまは、にせ預言者が現れ、戦争、飢饉、天災、迫害、親子、兄弟の仲違いなど、さまざまな苦難が起こる。そのような苦難ののち、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は、天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを、四方から呼び集める。」(マルコ13:26〜27)と、言って、人の子、キリストの来臨を予告されました。これが、第二の来臨と言われます。  それから、イエスさまの時代から、約2千年以上経っているのですが、私たちは、イエスさまが来られた第一の来臨と、未だ、これから起こると言われる、第二の来臨の間、その期間に、生きていることになります。  マルコ福音書によると、イエスさまは、さらに、このように言われました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父である神さまだけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには、分からないからである」(13:32、33)  このように、聖書にはイエスさまが語られた「終末の時」が告げられているのですが、しかし、その時は、まだ来ていません。聖書神学者の中では、「終末の遅延」と呼んで、こ れを、どのように理解するのか、議論されています。  先日、「カトリック新聞」を読んでいましたら、12月15日付けの1面にこのような記事がありました。去る11月23日から26日まで、日本に来られ、一般の新聞やテレビでも大きく報ぜられ、話題になりました、フランシスコ教皇が、12月1日付けで「使徒的書簡」が出されました。  その一部を、ご紹介したいと思います。  「私は、この書簡で、クリスマス前に降誕の場面を飾るという美しい家庭の家庭のならわしを奨励したいのです。」と書いています。「どこに飾られても、どんな形でも、クリスマスの馬小屋は、神の愛を物語ってくれます。神は、幼な子となられ、どんな状況にあろうと、あらゆる人のそばにいてくださることを知らせてくれるのです。」  「どんな素朴な降誕の場面でも、その中心には、『神のいつくしみ深い愛と、全宇宙の創造主が、身を低くして、私たちの小ささに、合わせてくださった』ことを思い起こさせます。」そこに、メッセージがあると、教皇は指摘されます。 さらに、忘れてはならない事実として、「この幼子イエスが、あらゆる命の源であり、支えなのです。」  「驚くべきことに、私たちは、神が、私たちと全く同じように行動するのを目にするのです。み子は眠り、母からミルクをもらい、他の子どもと同じように、泣き、遊びます。いつものように、神は驚かせてくださいます。予測不能で、いつも思いもよらないことをされます。」と、教皇フランシスコは書いています。  「降誕の場面は、私たちの世界に、神が来られたことを示していますが、私たちのいのちが、神ご自身のいのちに組み入れられたことにも、思い至らせてくれます。人生の究極の意味を知りたいと望むなら、主の弟子になるようにと、招かれているのです。」  さて、私たちも、クリスマスを迎えるシーズンになると、馬小屋の飼い葉桶に寝かされた赤ちゃん、マリアとヨセフ、3人の博士たち、羊飼いたち、さらに天使や、羊などを模った人形を、「馬小屋」の中に飾ります。また、そのような聖画を目にします。  家庭や、学校や教会などに、当然のように、馬小屋の模型や、クリスマス・ツリーや、リースなどを、飾りますが、それは、ただ、「クリスマスの飾り」というだけになって、終わってしまっていないでしょうか。クリスマスにいろいろ飾るのは、ただ、単に、クリスマスの行事だからということになっていないでしょうか。  私は、このカトリック新聞に掲載された、ローマ教皇の「使徒的書簡」に、心を打たれました。そして、その馬小屋の人形に、これほどまで、大きな思いを込め、深い黙想を持つことが、できることを学びました。  私たちは、間もなく、クリスマスを迎えます。「来るべき方が来られた」ことを、自分自身の心の中に、しっかりと確認し、ただ、例年のような、いつものようなクリスマスの行事だけではなく、さまざまな飾りや、行事や、礼拝を通して、神さまが、私たちに与えて下さった「み子のご降誕」の、深いところにある意味を、受け取りたいと思います。  〔2019年12月15日  降臨節第3主日(A年)  聖アグネス教会〕