彼らの泊まる場所がなかった。

2019年12月24日
ルカによる福音書2章4節〜7節 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。  クリスマス、おめでとうございます。  主の御降誕を祝い、イエスさまがお生まれになった馬小屋の場面を、頭に思い描きながら、私たち自身の心の中を覗き見て、また、私たちが、今、住んでいる世界、私たちの毎日の生活について、しばらく考えてみたいと思います。  私たちは、この世に生を受け、今、一生懸命、生きています。私たちは、自分の意志で、産まれてきた人は、一人もいません。 私たちは、今、生きるために、一生懸命、努力していますけれども、自分の力だけで、生きてきたのではありません。何か目に見えない大きな力によって、地球上のこの世に、命が与えられ、産まれさせられたのです。そして、また、かならず、その命が奪い取られる「時」があります。  このように、命を与え、命を奪うことのできる、目に見えない力、命を支配し、すべてのものの存在の根源となる力を、「神」と言います。  聖書によりますと、すべてのものは神によって造られました。そして、人間も、神によって造られたと、記されています。さらに、神は、人間にとって、最も大切なもの、「自由」というものをお与えになりました。  自由とは、2つ以上の「もの」や道、方法などがあって、そのどちらかを、自分の意志で、選ぶことができるということです。あれか、これか、を選択し、自分で決めることができる時、そこに、自由があるとか、自由であると言います。  私たちは、毎日の生活の中で、朝起きてから寝るまで、いつも、何かを選び、どちらかを選択して生活しています。  しかし、何でも自分の意志で決められるかというと、そうではありません。人間として、それぞれに、与えられた条件や制限がありますし、住んでいる国や地域、環境、社会によって、いろいろな制限や条件の違いがあります。一人ひとり、持って居る能力や性格によっても、その制限の内容や条件が違います。  それぞれに、違いはありますが、私たちは、少しでも多く、幅広く、選択することができる「自由」を手に入れたいと願って、努力しています。  ふり返ってみますと、私たち「人間の歴史」とは、科学の発展や、文明を開くということ、また、戦争をくり返していることにしても、それは、人が、みな、誰よりもたくさんの自由を手に入れたい、自由になりたいと願う、そのための努力、その人間の歩み、その道のり、足跡だったと言うことができます。 自分の自由を、より多く手に入れるために、人の自由を犠牲にしたり、奪ったり、人の自由を制限したりします。そのようにしてでも、自分が自由にできる範囲を広げたい、確かなものにしたいという願いが、しばしば、戦争や争いをもたらしてきました。神さまは、それでも、最も、だいじなものとして、人間に「自由」をお与えになりました。  古代の人々は、地震や、大雨による洪水や、台風や雷など、そういう自然の現象や、また、伝染病など、さまざまな病気も、なぜそれが起こるのか、その原因がわからず、これを防ぐ方法も知りませんでした。そこで、その原因を、神との関係の中で見いだそうとしました。それらは、すべて神の怒りによるものだと考えました。人間が、神の命令に背いたから、神の意志に背いたから、罰を受けるのだと考えました。天災や病気の原因を、人間の考え方や生き方に関係づけ、祈祷や、いけにえをささげというような方法で、目の前に起こっている恐ろしい現象から「救われたい」と願いました。天災や、病気は、もっと長生きしたいと願う人間の、自由を大きく制限するものであったからです。  さて、現在では、そのように考える人はいません。科学の発達は、めざましいもので、地震も大雨も台風も雷も、それが起こる原因は、ほとんどわかっています。その恐ろしさには変わりはありませんが、しかし、ある程度の予知や予防をすることができます。病気についても、原因や治療方法などがわかってきて、かつては死に至るような病気といわれるものでも、すべてではありませんが、治すことができるようになりました。そのために、人間の平均寿命も延びました。少なくとも天災や病気の原因を、神の怒りだとは、誰も思わなくなりました。  しかし、その一方で、科学の力によって、天災や病気の原因が、だんだんと解明され、それを防ぐ方法がわかってくると、神の存在を意識しなくなり、神は、もう要らないという時代に、なってきました。それに代わって、科学の力や知識が、神のようになり、人間自身が、神になってしまいました。  言いかえれば、神を恐れなくなり、神の意志や掟を忘れると、人が暴走する生き方に、ブレーキがきかなくなります。もっと、具体的にいえば、人を愛すること、人のことを思いやること、どのように生きるべきかを考えることなど、そういうことさえも、これを考えたり、教えたり、伝えたり、だいじに守ったりすることが、難しくなってきました。  世の中は、便利になり、安楽になり、過ごしやすくなり、そのことだけを追求することが価値観の中心となっています。  しかし、その結果はどうでしょうか。住みやすい社会、すべての人々が幸せになる世の中になったのでしょうか。  人と人との関係が、殺伐としたものになり、残虐な事件が起こり、国と国とがいがみ合っています。もっともっと自由になりたいと願いながら、他方では、別の束縛が生まれ、強制される力が起こって、私たちをがんじがらめにしています。  一部の人間が、もっと自由でありたいと願うために、自然を破壊し、資源を使い果たし、ある人たちを飢餓や貧困に陥れています。  世の中は、どんどんと変わっていきます。凄まじい勢いで変わっていきます。私たちは、否でも応でもその中に身を置いて、生きて行かなければなりません。  しかし、どんなに世の中が変わっても、変わらないものが、あるはずです。変わってはならないものがあります。  新約聖書のヘブライ人への手紙13章8節では、このように言います。  「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と。  私たちは、今日、そのイエス・キリストが世に来た。この世に生まれた。私たちと同じ肉体をとって、目に見える姿で、この世に来られたということを記念し、感謝して、ここに集まっています。  ヨハネ福音書3章16節、17節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。  私たちは、いつも、自由でありたいと願い求めながら、反対に、きびしい条件が課せられ、制限を加えられ、そう願えば願うほど、重い鎖につながれて、がんじがらめになっていきます。  これらの、私たちの肩に覆い掛かるさまざまな問題、重荷から解放し、その鎖から解き放ち、ほんとうの自由を与えるために、「神のひとり子」が、この世に、来られたのです。そして、今宵、イエス・キリストが、私たちのところに、生まれてくださったのです。  臨月になっていたマリアと、その婚約者ヨセフは、ベツレヘムの村で、泊めてもらう宿を探しました。しかし、どの宿屋も、満員でした。どこも泊めてくれる宿屋はありませんでした。どの宿屋も、部屋の中は、明るく照らされ、暖かく、飲み食いする客であふれ、笑い声や歌声が満ちていました。 賑やかさ、喧噪、食欲が溢れていました。しかし、マリアとヨセフには、泊まる所はありませんでした。 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)と記されています。  やっと、一軒の宿屋の馬小屋に泊めてもらい、イエスは、その馬小屋で生まれました。布にくるまれて飼葉桶に寝かされていました。  さて、私たちの「心」の状態はどうでしょうか。満員の宿屋の状態。喧噪と、酔っ払いの虚ろな高笑い、明るいけれども、淀んだ空気、そのような状態になっていないでしょうか。  あれもしたい、これもしたい。あれもしなければ、これもしなければと、忙しい、忙しいと、あわただしく、目先の自由、目に見える自由を手に入れるために、心を使い、欲望と野心でいっぱいになっていないでしょうか。  私たちの心は、「ほんとうの自由」、「まことの光」、「神のひとり子」を、「どうぞ、ここにお泊まりください」と言って、迎える貧しい馬小屋、イエスさまと、ヨセフとマリアを迎え入れ、泊まって頂く場所になっているでしょうか。そのような状態になっているでしょうか。  もし、私たちの心の部屋が、満杯で、喧噪と快楽でいっぱいになっていて、「あなたがたに泊まっていただく場所はありません」と断れば、私たちのほんとうの「自由」は、何によって得られるのでしょうか。  今宵こそ、胸を開いて、「私たちの、私の、心は、貧しい、馬小屋ですが、どうぞ、お泊まりください」、「どうぞ、今日、私の心の中に、お生まれください」と言って、心からイエスさまをお迎えしたいと思います。 〔2019年12月24日 降誕日前夕(A年) 京都復活教会〕