言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
2019年12月25日
ヨハネによる福音書1章1節〜14節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったもの は何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
クリスマス、おめでとうございます。
今日こそ、クリスマスの当日ですから、心を新たにして、主のご降誕を祝い、心から感謝と賛美の声を上げましょう。 12月25日、この日は、イエス・キリストの誕生日ですが、世界中で、これほど、多くの人びとに、誕生日を祝われている人はいません。ラジオでも、テレビでも、クリスマス・ソングが流れていますし、新聞にも、クリスマスのニュースが、掲載されています。繁華街の通りでも、家庭でも、この時ばかりは、日本中が、キリスト教になったのではないかと思うほど、クリスマスのムードが、あふれています。
クリスマスは、イースターと並んで、キリスト教の最も大きなお祭りの日ですから、理屈を言わずに、おおいに、みんんなで、楽しめばいいのですが、しかし、廻りがあまりに賑やかなムードになりますと、ちょっとだけ、いろいろなことを考えてみたくなります。
さて、イエスさまは、ほんとうに、12月25日に、お生まれになったのでしょうか。
正直に言いますと、イエスさまの誕生日は、いつだったのか、正確には、わかりません。たぶん、12月25日でないことだけは、確かだと思います。
それでは、なぜ、この12月25日が、クリスマスになったのでしょうか。ちなみに、「クリスマス」とは、Christ-massキリストのミサ、キリストのミサ聖祭(聖餐式)。「キリストの祭り」という意味です。
最も古い文献は、西暦336年、当時のローマの国の行事を記した「フィロカルスの暦」いう文書に、12月25日に祝ったという記録が見られます。それまでは、各地方、各教会において、まちまちの日付けで、「キリストの祭り」が行われていたらしいのです。今でも東方教会、ギリシャ正教やロシヤ正教、アルメニア教会などでは、1月6日が、キリスト誕生の日として、守られています。
クリスマスが、12月25日となったのは、「冬至祭」との混同があげられます。「冬至」とは、一年で、最も太陽が照る時間の短い日です。そして、次の日から、だんだんと、日照の時間が長くなります。地中海沿岸、その地方一帯を、ローマの皇帝が支配していた時代、太陽神を崇拝するペルシャのミトラ教という宗教が、ローマ帝国全体に広まり、太陽が復帰する日を、太陽の誕生日とし、盛大なお祭りが行われていました。
西暦313年、時の皇帝、コンスタンティヌスによって、「ミラノの勅令」という勅令が出され、今まで迫害してきたキリスト教を解禁とし、キリスト教を保護するばかりか、ローマ帝国の国教とすると定められました。
キリスト教の勢力が、地中海沿岸の国々に広がるとともに、太陽神の誕生を祝う「異教の祭り」、「太陽の祭り」を、キリスト教が取り込み、新しいキリスト教的意味を盛り込んで、この日を、イエス・キリストの誕生日とするということになりました。初期のキリスト教、初代教会の信徒は、信仰上の潔癖さから、異教の狂騒的な祭りと、キリスト教の神聖な祝いとが、混同されるのを嫌って、キリストの誕生を祝わなくなったとか、罪深いことだと非難した神学者がいたと記されています。
それでは、実際に、初代教会では、キリストの誕生について、どのように、関心を持っていたのでしょうか。
新約聖書には、マリヤへの受胎告知、許嫁のヨセフの苦悩、ベツレヘムの馬小屋、荒れ野で羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、また東方の博士たちが星に導かれて、イエスさまを拝みにきた話など、ほのぼのとした心温まる「物語」が記されています。
現在にいたるまで、教会の日曜学校や幼稚園の子どもたちは、昔も、今も、かわりなく、聖劇(ペイジェント)をし、絵本や紙芝居でも親しみ、おとなになった私たちの頭にも、この物語が刷り込まれています。
しかし、イエスさまは、ほんとうに、このようにして、お生まれになったのでしょうか。
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、4つの福音書があります。福音書は、イエスさまの「伝記」というか、イエスさまの生い立ち、イエスさまの教え、イエスさまがなさった事柄が記されています。
しかし、よく調べてみますと、これらの福音書が、編集され、書かれた「時期」に違いがあり、書かれた内容にも違いがあります。それぞれの福音書を書いた人たちは、ユダヤ地方のあちこちで、伝えられ、保存されていたイエスさまの教えや行動の記録、その断片が集められ、編集されたものだと言われています。
この4つの福音書のうち、最も初期に書かれたマルコには、イエスさまの誕生物語について、一言も触れていません。その当時の教会では、そのことについて、あまり関心がなかったのではないかと推測されます。
そして、最後に書かれたヨハネ福音書でも、イエスさまという方が、何処で、どのようにして生まれたのかというようなことには、まったく触れず、「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは、初めに神と共にあった。万物は、ことばによって成った。」「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。」というような、非常に、抽象的なことばで、書き始められています。
これに対して、マタイと、ルカの2つの福音書には、誕生物語を載せられているのですが、それでも、まったく別々の資料が、独自に集められて、「誕生物語」が記されていることがわかります。
また、パウロという人は、「ローマの信徒への手紙」を始めとして、たくさんの手紙を書き、聖書に掲載されているのですが、コリントの信徒への手紙�僑犠�16節に、このように書いています。
「それで、わたしたちは、今後、だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」と書いています。
パウロは、イエスさまがキリストとして、十字架に懸けられて死に、3日目によみがえり、天に昇り、今も共にいて下さるのであるから、あの方が、いつ、どこで、どのようにして生まれ、どのようにして育ったのかというようなことについては、今は、もう、関心はないと、言うのです。今までは「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように、知ろうとはしません。」
よみがえったキリストに結ばれた人は、だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生れたのですと、言います。
初代教会の人々は、キリスト・イエスに対して、生前の血筋や血統、生まれ方や育ちの問題には関心がなく、それよりも、「キリストがこの世に来られた」という事実、そのことのみに大きな意味を見出しました。
イエスさまがなくなって、50年も経った後に書かれたヨハネの福音書について、先ほど、読みました聖書の言葉を、もう一度、開いてみましょう。(ヨハネ1:1、14、18)
ヨハネ福音書1章の1節と14節、そして、18節を読みます。
1節「初め言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
14節「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。
「初めにことばがあった」の「ことば」とは、神の言葉、神の意志、神のみ心です。神さまが、天地創造をされた時、「光あれ」と言われて、この世が始まりました。この神さまが発せられたその「ことば」です。このことばが、肉体をとって、私たちに見える方として、この世に来られました。「言は肉となって、私たちの間に宿られ」ました。
言が肉体をとって、この世に来られたことを「受肉」と言います。
私たちが住む自然の世界、自然界に、自然界の法則を越える目に見えない超自然の力が介入してきた。突然、超自然の力が現されたというのが、神の子の「受肉」であり、そのことを報せたいというのが、クリスマス物語です。おとめマリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産むと予告され、そのことは時の権力者や学者、既成宗教の専門家たちには現されず、身分の低い羊飼いや、異教徒である東方の占星術師たちにだけこのことが報されたという物語を通して、最も大切なことを教えようとしています。
先ず最初に、聖書が私たちに知らせたい、知ってほしい、いや知らなければならないという「思い」があって、それを現すために、このクリスマス物語が伝えられたということができます。
最後に、もう一ヶ所、聖書を読みます。
ヨハネの第一手紙4章7節から12節です。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが、神を愛したのではなく、神が、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
神とは何か。私たちは、一生懸命、神さまを求めています。
ここで、はっきりと、「神は愛です」と定義しています。
神のことば、すなわち、神さまの思いが、神さまのみ心が、肉体を取ってこの世に来られました。それは、言い換えると、「神の愛」が、この世に来られた。私たちと同じ肉体をとって、私たちに見える姿をとって、私たちの人間の歴史の中に来られたのだということです。
クリスマスのテーマは、「愛」であると、言うことができます。神さまは、独り子を、この世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されたのです。わたしたちが、神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて、神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神は、わたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるのです。
このことを思うとき、私たちの胸が熱くなります。
クリスマスのこの日、私たちに与えられている、この特別の恵みに、心から感謝し、大きな声をあげて、共に神を賛美しましょう。
〔2019年12月25日 (降誕日A年) 京都復活教会〕