信仰が現れた。

2019年12月29日
ガラテヤの信徒への手紙3章23節〜25節、4章4節〜7節   信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。  私は、京都刑務所で、教誨師という仕事をさせて頂いています。毎月、刑務所へ行って、受刑者に話をしているのですが、気がつくと、もう30年以上、続いています。京都刑務所には、31人の教誨師が所属していて、教誨師会という会があります。そこには、仏教各派(東本願寺、西本願寺、浄土宗、日蓮宗など)、天理教、大本教、金光教、神社神道など。キリスト教では、カトリック、日本基督教団、聖公会など。いろいろな宗教、教派の先生方が属していて、宗教教誨というご奉仕をしています。  教誨師会では、年に、何回か研修会があり、総会を持っています。その会合には、必ず、「意見交換会」と称する、懇親会があります。  ある時、その懇親会で、隣りに座った、京都でも有名な神社の神主さんと、正確には、権禰宜という資格の神主さんですが、親しくなって、話をする機会がありました。  互いに、ビールをつぎあいながら、その神主さんが、しみじみと言われました。  「キリスト教って、よろしいなあ。」  「なんで、ですか。」  「キリスト教には、教える内容がありますやろ」と、しみじみ言われました。  「神社には、大勢、人は来られますけど、だいたい、お賽銭をあげて、柏手打って、自分の願いごと唱えて、帰りはるだけですわ。神社の方から、人としての生き方とか、道徳とか、何かを教えるようなことは、ありません。」  「それでも、神主さんになるためには、神道系の大学を出てるんでしょう。皇學館大学や國學院大學などがありますでしょう。そこでは、どんなことを、教えているのですか。」  「その中心は、古事記と日本書記ですわ。言いかえたら天皇家の歴史を学ぶぐらいですわ。」  「それでも、神社には、清めとか、禊ぎなどがあるでしょ。」 と言って、慰めたのですが、その若い神主さんは、何回も、「キリスト教には、教える内容があって、よろしいなあ」と、繰り返していました。  それ以来、その神主さんと、仲良くなり、我が家に立ち寄って頂いたり、その方の神社に、夫婦で招かれたりしています。  その時の会話を思い出して、外から見て、「キリスト教には、教える内容があって、よろしいなあ」と言われている、「そのキリスト教が教えている内容とは、何なんだろう」と考えました。羨ましく思われている、キリスト教の『教え』とは、何なのでしょうか。これこそは、いちばん大切な教え、その内容は、これだと、すぐに、答えることは、できるでしょうか。逆に、私たちの信仰生活や教会生活は、柏手は打ちませんが、神社で、自分の願いごとを唱えているだけというお祈りで終わっている、それが信仰生活だと思っていることはないでしょうか。  世の中に、世界中には、「宗教」は、数えられないほど、あります。私たちは今、キリスト教徒として、クリスチャンとして、これが、いちばん大切な教えですと、胸を張って言い切れる「信仰の内容」を、はっきりと自覚しているでしょうか。  私たちが教えられている教えのすべては、聖書にある。聖書から学んでいるのですが、その聖書には、旧約聖書の時代から、新約聖書の時代へ、大きな移り変わりががあります。  旧約聖書の時代とは、ユダヤ民族、アブラハムの子孫として、唯一の神、ヤーウェの神を信じてきました。この民族には、モーセという預言者を通して、十戒をはじめとして、たくさんの掟、律法が与えられ、その律法を学び、律法を守り、律法に定められたように生活をすることが求められました。  生粋のユダヤ人で、律法を学び、律法を守り、律法に従うことが、神の救いを得る唯一の方法だと熱心に、信じて生きてきたパウロ(サウロ)は、当時の新興宗教であったキリスト教を迫害し、クリスチャンを捕らえる役割を果たしていたのですが、ある時、エマオへ向かう道中で、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という、キリストの声を聞き、そこで起こった聖霊体験により、ガラッと、生まれ変わりました。キリスト教徒を迫害していた人、サウロのちのパウロは、この出来事によって、誰よりも熱心なキリスト教徒になりました。(使徒言行録9章1節以下)  さて、先ほど、読んで頂いた今日の使徒書ですが、これは、パウロが、ガラテヤの教会の信徒に向かって、書き送った手紙です。その3章23節以下に、このように書いています。 「信仰が現れる前には、わたしたちは、律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」  私たちは、ふつう、「信仰する」とか、「信仰を持つ」と言います。ギリシャ語のピスティス(πιστιs)が、信仰、信頼、誠実、約束、確証など訳されています。パウロは、ここでは「信仰」という言葉を擬人化して使っています。もう一ヶ所、25節でも「しかし、信仰が現れたので」と言っています。  パウロがここで言う「信仰」とは、イエス・キリストのことです。自ら「神の子」であると唱え、父である神を指さし、神の福音を説き、さまざまな奇跡を行い、十字架につけられて死に、3日目によみがえられたイエス・キリストのことを「信仰」言っています。この方こそ、神の子であり、救い主であると信じる信仰、信仰の対象であるイエス・キリストのことを、パウロは、「信仰そのもの」と呼んでいます。  そして、この方が現れ、この方のことが人々の前に明らかにされる前には、言いかえれば、旧約聖書の時代には、私たちは(その当時の人々は)、ただ、掟、律法によって、閉じ込められ、監視されていたのだと言います。そして、パウロは、今は、律法のことを、「赤ん坊であったわたしたちを、キリストに導くための『養育係』だったのだ」と言います。  「時が満ちて」(4:4)、神さまは、ある時、ある場所を選んで、おとめマリアという女性を選んで、神のみ子を、わたしたちと同じ肉体をとって、この女性から生まれさせ、律法を守ることこそが、何よりもだいじだと信じている人たちの中へ、お遣わしになりました。  それは、律法の支配の下にあって、苦しみあえいでいる人たちを、救い出して、み子イエスを信じる者たち、すなわち、わたしたちを神の子となさるためであったのだと言います。  パウロは、旧約聖書の時代は、律法、掟を、守ることが、唯一の「救いの道」だと信じていた時代は終わった。このイエスと名付けられたこの方によって、ほんとうの救いが与えられるようになったのだと言います。  律法によって、罪のためにがんじがらめになっていた人たちが、救い出されて、「神の子」となったのだと宣言します。 ほんとうの神の子イエスさまの霊を受けて、神さまに向かって、「お父ちゃん」、「アッバ、父よ」と、呼びかける資格が与えられたのです。実の子どもが父の財産を相続する権利を持つように、イエス・キリストによって、神さまの財産を相続することができる「相続人」になったのだと、パウロは言います。  さて、私たちには、神さまに向かって、「アッバ、父よ」、「お父ちゃん」と呼ぶ資格が与えられている、神さまの相続人だと、言われている自覚はあるのでしょうか。  私たちは、洗礼を受け、堅信式も受けて、クリスチャンになりました。立派に、「神の子」と呼ばれる資格が与えられているのですが、果たして、私たちにそのような自覚はあるでしょうか。  ヨハネの福音書1章16節以下をもう一度読みます。  「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理は、イエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:16〜18)  私たちは、何を見て、何を信じて、信仰生活を送っているのでしょうか。  先ほどの神主さんに、「キリスト教は、教える内容があって、よろしいなあ」と何度も言ってくれた神主さんに、私はいいました。「だけど、神社神道もいいところがいっぱいあるじゃないですか。日本の国の宗教の信者数では、神社神道の信者数が、最高じゃないですか」と言いました。  すると、その神主さんは、真面目な顔をして言いました。  「その数字は、全国の神社の初詣の人数を、ぜんぶ、足しただけです。」  逆に、私たちの信仰生活が、いかにあるべきか、考えさせられました。 〔2019年12月29日 降誕後第1主日(A) 京都聖マリア教会〕