神にかたどって造られた 新しい人を身に着けなさい。

2020年01月01日
エフェソの信徒への手紙4章21節〜24節  キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。  明けまして、おめでとうございます。  昨年は、皆さんにとって、どのような年だったでしょうか。昨年、与えられた恵みに深く感謝し、新しい年が、祝福で満たされた年となりますように、心からお祈りしたいと思います。  教会の暦では、1月1日は、「主イエス命名の日」という祝日です。  イエスさまは、生まれて間もなく、8日目に、当時のユダヤ人社会の習慣に従って、割礼という儀式をお受けになりました。そして、「イエス」と名がつけられました。この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使から示された名であると伝えられています。(ルカ1:31)  「イエス・キリスト」という名前ですが、イエスが名前で、キリストが、苗字だと思っている人がいます。そうではありません。「キリスト」とは、メシヤ、「油注がれた者」、「救い主」という意味です。後の時代にイエスさまを神の子と信じた人たちから、つけられた称号、身分を表す肩書きでした。  「イエス」という名は、ギリシャ語で、「救い」を意味します。旧約聖書では、ヘブル語で「ヨシュア」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。イエスという名は、ユダヤ人の間で、最も広く用いられていて、ごくありふれた普通の名前で、非常に多かったようです。  その他に、イエスさまは、「ナザレのイエス」、「ダビデの子」などと呼ばれています。イエスさまは、いろいろな称号で呼ばれています。その名前によって、その方がどのような方であったをうかがうことができます。 「主イエス命名の日」は、単に、生まれたばかりの赤ちゃんに、イエスという名前がつけられたことを記念するだけではありません。日本のことわざに、「名は体をあらわす」という言葉があります。名前は、物事の本質、または存在そのものを意味するしるしでもあります。  人の名は、とくにその人の人格、名誉、品性、力や立場をも表します。「名を汚す」という言葉は、名付けられたその人の人格や名誉や品性を汚す、または、その存在そのものを否定したりすることになります。  モーセの十戒の第3戒では、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められています。  さらに、イエスさまは、マタイ18章20節に、「2人または3人が、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」と、言われました。  さらに、私たちが、お祈りをする時、いつも、「イエス・キリストによって、お願いします。」とか、「イエス・キリストのみ名によって、お願いします。アーメン」言って、お祈りを終わります。  それは、ただ、長年の習慣であるとか、お祈りを終わる符牒のようなものではありません。神さまのみ子であるイエスさまが、私たちと、神さまの間に立って、「とりなし」て下さることを願っているのです。その大切な意味を意識しないで、この言葉を唱えていたとすれば、イエスさまご自身を、汚していることになります。  「イエス」と名付けられた神の御子への信頼と、感謝を、もう一度、新たにしたいと思います。  さて、今日は「元旦礼拝」の日でも、あるわけですが、皆さんは、どのようなお気持ちで、新しい年をお迎えになったでしょうか。  歳のせいだと思うのですが、最近、子どもの頃の昔の習慣を、なつかしくい思い出すことがあります。私が、子どものころは、元旦というと、なぜか、身も心も、新しくなるような気分がありました。肌着や靴下から運動靴や上に着るものまで、何もかも新しいものを身につけて、ほんとうに新しい自分になったような気分で、お正月を迎えたものでした。しかし、このごろは、あまりそういう習慣がなくなり、「新しくなる」とか「改まる」とかいう感じも、なくなったような気がします。  パウロは、エフェソの信徒への手紙4章22節、23節に次のように言っています。少し要約して言いますと、  「以前のような生き方をしている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」  パウロは言います。わたしたちが新しくされるということは、キリストについて、聞き、キリストに、結ばれ、教えられ、すべての真理が、イエスさまの内にあるということを、学んだはずです。だから、「以前のような生き方をしている古い人を、脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた、新しい人を身に着けなさい」と、いうのです。  聖書では、「新しくされる」とか「改まる」ということは、暦がかわり、お正月が来たから、気分が変わるというようなことではなく、イエス・キリストによって新しくされ、イエス・キリストによって、生まれ変わるのだと、教えています。  それでは、イエス・キリストによって新しくされるとは、どういうことなのでしょうか。  ずいぶん昔ですが、テレビで、京都のある有名な禅宗のお寺が紹介されていました。若い僧侶が、入門を許され、朝早くから夜まで、座禅に明け暮れして、修業する姿が紹介されていました。  座禅を組んでいる時も、食事をする時も、庭の掃除など作業をしている時も、托鉢をして町を歩く時も、すべて細かく定められた作法通り、これを厳しく守ることが求められています。  その中で、そのお寺の偉いお坊さんが、インタビューに答えて言っていました。禅の神髄は、「真似をすることです」と。  開祖以来、歴代の先輩修業者たちの真似をすること。ただ、ひたすら真似る、徹底的に真似をするということが、修業だと言っていました。徹底的に真似ることができた時、初めてほんとうの個性というものが、光るのですと言っていました。  これを聞いて、なるほど、キリスト教にも共通するところがあるなあと感じました。  私たちの信仰というものも、先ず信仰の良き先輩方の考え方や、生活、行動を真似るところから出発するのではないでしょうか。  毎週、毎日、繰り返している礼拝も、このような礼拝の形を生み出し、語り伝えた、2千年を越える私たちの先輩たちの礼拝生活を、実は真似ているのではないかと思います。それをさらにさかのぼれば、イエスさまにたどり着き、私たちの信仰生活は、そのイエスさまが考えておられたことを、私たちの考えとし、イエスさまが愛されたように、人を愛し、イエスさまが生きたように、私たちも生き、そして、イエスさまが死なれたように、私たちも死ぬということです。徹底的に、イエスさまの生きざまの真似をしようとすることが、私たちが信仰に生きるということではないかと思います。  イエスさまは、弟子たちに、繰り返し「私に従いなさい」と言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。(マタイ16:24)  イエスさまに従うということは、イエスさまについて行くということです。イエスさまが、歩まれる足跡を踏みながら、ついて行くということです。その時には、自分を捨て、自分の十字架を背負って、従うことになるのではないでしょうか。  そして、パウロは、その同じことを、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」という表現で、人々に勧めました。  人がぬいぐるみや着ぐるみを着て、その動物や人間に成りきるように、キリストによって、新しく生まれ変わった人は、キリスト、その方を、上に着るのです。  「キリストの真似をする」、「キリストに従う」、「キリストを着る」それは、同じ意味のことを言っているのだと思います。  それでは、もっと、具体的にいえば、どうすればいいのでしょうか。  ここで、今年の年頭にあたって、みなさんに、提案したいと思います。それは、「イエスさまなら、どうなさるか」と、考えながら、毎日の生活をしてみるということです。  ほんとうは、24時間、毎日、「イエスさまなら、どうなさるか」と考えながら生活できれば、すばらしいのですが、なかなかできません。そこで、一日に、1回でも、2回でも、何かの時に、「こんな時、イエスさまなら、どうなさるか」と、考えるのです。  とくに、困った時、苦しくなった時、悲しい時、行き詰まった時、「こんな時、もし、イエスさまなら、どうなさるか」と考えてみるのです。  「もし、あなたならどうしますか」を英語で、表現すると、 If you were in my shoes. といいます。直訳すると、「もし、あなたが、わたしの靴の中に居たなら」となります。もし、あなたが、わたしの立場だったらどうしますか、という意味です。  もし、イエスさまが、わたしのこの立場におられたら、何と言われるだろうか、どうなさるだろうか、なさらないだろうかと、自分自身に、尋ねてみることです。カーッとなっている時でも、ちょっと踏みとどまって、イエスさまなら、こんな時、どうなさるかを考えてみることです。  そして、「イエスさまなら、そんなことをなさるはずがない」、または「きっとこうなさるに違いない」と、思った時には、勇気をもって、それを実行するのです。  それでも、すぐには、すべてを実行出来ないかもしれません。しかし、少なくとも、1歩でも、2歩でも、それに近づこうと努力してみることです。  そのためには、イエスさまのことを、イエスさまの考えや、イエスさまのなさったことを、良く知っていなければ、実行できません。日頃から、聖書を読んで、イエスさまのことを、よく知っていなければなりません。安っぽい絵に描かれたようなイエスさまの像を、イエスさまだと思い込んでいると、正しいイエスさまの答えは出てきません。  先ほど、今日の特祷とともに、祈祷書にあります「新年の祈り」をしました。その中に、「どうかこの新しい年の始めに当たり、わたしたちが召されて保つ使命を新たに悟り、絶えず主の道を歩み、ついに永遠のみ国に至る幸いにあずかることができますように」と、祈りました。  この「絶えず主の道を歩み」とは、どういうことでしょうか。それは、つねに、イエスさまのまねをし、イエスさまがなさったようにする、勇気をもってする、あるときは、忍耐をもって、しないということです。  「こんな時、イエスさまなら、どうなさるか」。この言葉を、私たちの、今年の合い言葉にしながら、教会生活を、また一人一人の生活をしてみて頂きたいと思います。  よたよた、もたもた、しながら歩もうとしている私たちを、イエスさまは、にこにこしながら、支え、励まし、力づけ、ゆるしてくださるだろうと思います。  主のみ名によって集められた、わたしたちの上に、主の祝福がゆたかにありますように。       〔2020年1月1日 主イエス命名の日・元旦礼拝  京都復活教会〕