パウロの祈り
2020年01月05日
〔2020年1月5日 降誕後第2主日(A年) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕
エフェソの信徒への手紙1章15節〜19節
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
教会の暦では、今日は、降誕後第2主日です。また、この日は、「バイブル・サンデー」(聖書の日)とも呼ばれています。さらに、明日、1月6日は、「顕現日」という祝日で、神さまは、ユダヤ人以外の異邦人にも福音を示して下さったことを記念する日です。
今日は、先ほど読んで頂きました使徒書、聖パウロが、エフェソの教会に宛てて送ったと言われる「エフェソの信徒への手紙」からご一緒に学びたいと思います。
エフェソという地名ですが、現在は、トルコの国に属していて、遺跡だけが残る観光地ですが、古代では、ペルシャ、ギリシャ、ローマと、時代によって、それぞれの国に支配され、パウロが、この手紙を書いた時代には、ローマの支配下にありました。地中海に面した港湾都市で、海上交通の拠点として繁栄していました。
当時、エフェソには、ギリシャからの移民が多く住んでいて、ギリシャ神話のアルテミスを信じる人々が多く、街の中心には、「アルテミス神殿」がそびえていました。
パウロは、3回の伝道旅行の内、第2回目の伝道旅行で、エフェソに行き、約3年間、そこに滞在して、異教の地に宣教活動を展開しました。(使徒言行録19:1〜40)
パウロは、その後で、エフェソの教会の人々に宛てて手紙を書き、エフェソの教会の信徒のために、神さまに感謝し、祈っています。1900年ほど昔、エフェソの教会の信徒に宛てて書かれた手紙なのですが、同時に、現在、今、私わたしたちが、この手紙を読むとき、私たちの教会に宛てられた手紙でもあり、そして、私たち一人一人に宛てて書かれた手紙でもあるということができます。
パウロの願いと神さまへの祈りを、同時に、私たちへの願いとして、受け取りたいと思います。
パウロの第一の願いは、エフェソ1章17節、18節にあります。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」と、パウロは、祈ります。
神さまが、あなたがたに、知恵と啓示の霊を受けて、神さまを、ますます深く知ることができるように、心の目を開いてくださいと、祈ります。
聖書に出てくる「知恵(ソフィア)」とは、単に、科学的な知識や、世渡りのために賢く生きる知恵とか、知識とか、理解力とか、何かの奥義を知る知識というようなものではありません。それは、霊的な宗教的な特別の「知識」を言っています。同じエフェソ書の1章7節に、このような言葉があります。「わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神は、この恵みを、わたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた(隠された)計画をわたしたちに知らせてくださいました。」(7、8節)
パウロがいう「知恵」とは、他の宗教や人生哲学にはない、救いについての知恵であり、知識なのです。
それは、神さまが、まず、愛するみ子を、わたしたちのために、お与え下さったということです。何よりも、まず第一に、その恵みを知りなさい。そして、その御子が十字架につけられ、かつて、罪を贖うための「いけにえ」として、羊が神殿にささげられたように、命をささげて下さったということです。そのイエスさまが、流された血によって、わたしたちの罪が贖われ、わたしたち一人一人の罪が赦されたのです。
そのために、わたしたち自身は、何一つ良いことをしたわけではないのに、神さまが、神さまのほうから、一方的に、わたしたちを愛するがゆえに、与えてくださった「恵み」なのです。その与えられた神さまのお恵みを知ること、その神さまの隠された、秘められたご計画に気づくこと、そのために、心の目を開いてくださいと、パウロは祈ります。
そして、パウロの二つ目の願いは、18節ですが、パウロは、
「神の招きによって、どのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、悟らせてくださるように」と、祈ります。
この祈りの意味を知るために、同じ、エフェソの信徒への手紙1章3節、4節の言葉を見たいと思います。
パウロは言います。「神は、わたしたちを、キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は、わたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
さらに、11節(使徒書では、7節から14節は、省略されていますが、)には、「キリストにおいて、わたしたちは、み心のままに、すべてのことを行われる方の御計画によって、前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」と書いています。
ここで、パウロは、わたしたちは、み心のままにすべてのことを行われる神さまの御計画によって、前もって定められ、約束されたものの、(ちょうど、子どもや孫が、親の財産を相続するように)、相続者とされたのだと言います。
ともに、神さまから財産相続を受ける者になったのです。 では、何のために、財産の相続を受けたのでしょうか。
「それは、以前から、キリストに、希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(11節)
そして、その受けるべき財産とは何でしょうか。どのような財産を相続するのでしょうか。パウロは、言います。
「あなたがたも、また、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で、証印(しるし)を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが、み国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて、神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
このようにして、クリスチャンになった者は、み国を受け継ぐ相続人となったと言います。
キリストの真理のみ言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、洗礼を受け、その証拠として聖霊の証印(しるし)を額に印されました。
この聖霊こそ、わたしたちが、神のみ国を受け継ぐための保証であると、パウロは言います。
神さまの招きによって、わたしたちは、神さまのみ国を受け継ぐ者とされたという、何ものにも比べられない希望が与えられているのです。このように、「聖なる者」にされた私たちが、受け継ぐべきものが、どれほど豊かな栄光に輝いたものであるかを、彼らに悟らせてくださいと、パウロは祈ります。
第三の願いは、19節に、「わたしたち信仰者に対して、絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」と祈ります。
パウロは、キリスト以前の時代には、隠されていた神さまの隠されたご計画が、神さまの啓示によって、明らかにされ、それが、キリストによって実現されたと言います。
「すなわち、異邦人が、福音によって、キリスト・イエスにおいて、約束されたものを、わたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となったということです。神さまは、その力を働かせて、わたしに、恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。」
(エフェソ3:6〜7)
かつて、キリスト教以前のユダヤ教では、ユダヤ民族だけが、選ばれた民であり、律法に従う者だけが、神の救いに与ることができると堅く信じられていました。異邦人は、滅びて当たりまえ、救われない人たちであると、断定してきました。そこには、神さまによって秘密にされていたご計画があったのです。それが、キリストによって、その秘密にされていた計画が、明らかにされたのだと、パウロは言います。
そして、異邦人が、福音に触れ、イエス・キリストによって約束されたものを、一緒に受け継ぐ者、同じ約束にあずかる者とされたと言います。
このように、わたしたちに対して働く、神さまの力が、どれほど大きなものであるかを、悟らせてくださるようにと、パウロは、エフェソの教会の信徒のために祈り、そして、また、今、この手紙を読む私たちのために祈っています。
わたしたちに、何か事件が起こった時、また、何かが、突然、知らされたりした時、日常会話の中でよく言う言葉があります。「そのことは、頭ではわかっているんだけど、気持ちがねえ、気持ちが、ストンと落ちないのよ。」「気持ちがついていかないのよ」と言うことがあります。
突然起こった出来事や、さまざまな状況について、知識としては、理屈としては解る。どのようにすべきかということも分かっている。だけど、気持ちがついていかない。感情とか感性が、そのような外からの刺激を受け止められない。感覚的な能力がついていかないということがあります。
神さまのお恵みについても、イエスさまの十字架上の死、そのことによって、わたしたちの罪が赦されたということも、聖書を読んで知っている。いやというほど、説教も聞いて知っている。しかし、それは知識として、知っているのであって、気持ちや感覚として、心の底から、それを受け止めるところまで届いていないということはないでしょうか。
神さまを信じて生きることに、ある時には、感動とか感激を覚え、喜びや感謝にあふれることがなければ、信仰生活の神髄に触れていることにはなりません。
へんな例ですが、かつて、プロ野球の選手で、楽天ゴールデンイーグルスにいて、さらに、アメリカのニューヨーク・ヤンキーズに移籍して活躍している田中将大(たなか まさひろ)という投手ですが、テレビで、時々見せていましたが、相手チームのバッターを、三振に打ち取ったとき、投手として、ピンチを切り抜けたとき、ピチャーズ・マウンドで、大きな口を開けて吠え、腕を天に突き上げたり、しゃがんだり、飛び上がったりしている姿をよく見せていました。
自分で自分を励まし、気持ちを奮いたたせる、勢いづけることをしているのだと思います。
冷静にその場の出来事や状況を受け入れることもだいじですが、その知識や知恵を、感覚や感情、感性で受け止めることによって次の力を生み出し、その場を乗り切るための力を倍増させ、自分の気持ちを奮い立たせることがあるのではないでしょうか。
わたしたちの信仰生活では、吠えたり、飛び上がったりする必要はありませんが、わたしたちに、知恵と、啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにしてください、心の目を開いてくださいと、大きな声で、熱烈な祈りをささげることも、時には、必要なのではないでしょうか。
また、神さまの招きによって、どれほど大きな希望が与えられているか、聖なる者とされて、受け継ぐ相続人となることが、どれほど豊かな栄光に輝いていることなのか悟らせてくださいと、熱烈な祈りをささげることも、必要なのではないでしょうか。
さらに、わたしたち、神さまを信じる者に対して、絶大な働きをなさる神さまの力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださいと、吠えるような、熱烈な祈りをささげることも、必要なのではないでしょうか。
パウロの祈りのような祈りを、わたしたちの祈りとして、全身全霊をもって、神さまに願い、祈りたいと思います。