「先生、どこに泊まっておられるのですか」
2020年01月19日
ヨハネによる福音書1章29節〜41節
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。2人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後4時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った2人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
私たちが使っている言葉には、表面的な何かを表す意味と、その奥に隠された、もっと深い別の意味を持つ言葉があります。
たとえば、「見る」という言葉でも、私たちが、自分の目で、姿や形、光景などを見るというだけではなく、「人を見る目」とか、「人を見る」と言いますと、その人の心の中をのぞき、その人の性格や性質まで判断することを意味します。「人からどのように見られているか」となると、自分が人から評価されたり、非難されたりしていることを気にすることになります。
「知る」という言葉で考えますと、やはり「情報を知っている」「知識を持っている」ということから、さらに「見分ける」「深く理解する」、「悟っている」、「予見する、予知する」、「経験する(酒、異性)」、「あの人は疲れを知らない人だ」などと、いろいろな意味に使われます。
このように、言葉には、二重、三重の意味があって、その言葉を通して、さらに、もっと深い意味を表そうとしていることも、たくさんあります。
聖書にも、そのような言葉が多く使われています。表面的には、誰でもよく遣う、やさしい言葉にも、その言葉の向こうに、信仰の真髄や、物事のほんとうの意味を表そうとしていたり、長い歴史の中のある出来事が、そこに隠されていたりすることもあります。
聖書は、何回読んでも、その都度、聖書の方から立ち上がって語りかけてくるとか、意味が違って聞こえるとか、その度に新しい感動を呼び起こされる、というようなことがよくあります。ということは、そこに、ほんとうの言葉の意味の深さがあるからではないでしょうか。
そのような思いで、今日の福音書、とくに、1章29節を見ますと、ヨルダン川で、洗礼を授けていた洗礼者ヨハネは、ある時、イエスさまが、自分の方へ歩いて来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。
さらに、35節では、その翌日、そのバプテスマのヨハネが、2人の弟子と一緒にいて、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言ったと記されています。
イエスさまは、なぜ、「世の罪を取り除く神の子羊だ」、「神の子羊」だと呼ばれたのでしょうか。
この言葉には、当時のユダヤ人なら、誰でも思い出す、旧約聖書の中の、だいじな物語にある、大きな意味がありました。
旧約聖書の「出エジプト記」の中にある出来事です。
イエスさまの時代から、約1300年ほど遡った昔、イスラエルの民は、エジプトに寄留していましたが、その内に、奴隷のように扱われるようになり、最後には、エジプト王によって、強制労働をさせられ、イスラエルの民は、うめき、苦しんでいました。そこで、神さまは、モーセを遣わして、イスラエルの民を、エジプトの地から脱出させようとしました。ところが、エジプトの王は、だいじな労働力を失うことを恐れて、そのことを妨害します。モーセは、神さまからの力を授かって、さまざまな奇蹟を行い、ユダヤ人たちを解放するようにと、エジプト王に、何度も迫りましたが、王は、ますます、かたくなになってゆるしません。そこで最後に、神さまは、言われました。
「わたしは、なおもう一つの災いを、エジプト王ファラオとエジプトにくだす。イスラエルの民全員に言いなさい。『今月の十日、人はそれぞれの家、家族ごとに小羊を一匹用意しなさい。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。その日の夕暮れに、皆でそれを屠り、その血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居に塗りなさい。その夜、わたしは、エジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちが助かるしるしとなる。これが主の過越である。」そこで、イスラエルの民は、言われたように、雄の子羊を屠り、その血を家の入口に塗りました。すると、神が起こした災い(悪質な伝染病)は、その家を過ぎ去り(Passover)、イスラエルの民は、全員助かりました。反対に、エジプトの民は、王宮にいたるまで災いが万延し、男の子の初子(長男)が死に、王の息子も死にました。さすがに、エジプト王は、この事態に恐れをなし、イスラエルの民を解放しました。モーセに率いられたイスラエルの民、人々は、エジプトから脱出しました。これが、有名な「出エジプト」の物語です。(出エジプト12章1節〜14節)
この出来事を記念して、後のユダヤ人たちは「過越の祭り」として守り続け、イスラエル民族の「救い」の原点として、忘れてはならない出来事として、これを語り継ぎ、伝えられてきました。
バプテスマのヨハネが、イエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言ったのは、「この方こそ、人びとの罪を取り除くために、戸口の柱に、血を塗るために、屠られた子羊」、「世を救ってくださる方だ」という意味であり、そこには、バプテスマのヨハネの、信仰を告白がなされています。 さて、ヨハネが、イエスさまを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言った日の翌日、洗礼者ヨハネは、歩いて来られるイエスさまを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と、もう一度、同じことを言いました。(35節、36節)
ヨハネの2人の弟子は、それを聞いて、イエスさまに、ついて行きました。するとイエスさまは、振り返って、彼らがついて来るのを見て言われました。「(わたしに)何を求めているのか」と。
するとヨハネの弟子たちは言いました。「ラビ(先生) どこに泊まっておられるのですか」と。
すると、イエスさまは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らは、イエスさまについて行って、どこにイエスさまが泊まっておられるかを見届けました。
そして、彼らは、その日は、イエスさまが泊まっておられる所に泊まりました。それは夕方の4時ごろだったと記されています。
洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに従った2人のうちの1人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。アンデレは、そのあと、すぐに、自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちは、メシア(「油を注がれた者」、キリスト、救い主) に出会った」と言いました。その後、アンデレは、兄弟ペトロをイエスさまの所へ連れて行ったと記されています。
マタイ、マルコ、ルカの福音書によると、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、ガリラヤ湖のほとりで魚を捕る漁師でしたが、イエスさまが、突然「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、彼らは舟も網も捨てて、イエスさまに従ったと記されています。
イエスさまと、ペトロ、アンデレとの出会いかたが、マタイ、マルコ、ルカの3福音書と、ヨハネによる福音書では、違っています。多分、このように「違った伝承」があったのではないかと言われています。(マタイ4:18〜22、マルコ1:16〜20、ルカ5:1〜11)(ヨハネ1:29〜41)
ここで、もう一度、バプテスマのヨハネが言った、「世の罪を取り除く神の子羊だ」という言葉に、こだわってみたいと思います。
洗礼者ヨハネの弟子だった2人の弟子たちは、イエスさまに出会い、自分たちの先生であるヨハネが、「あの方は、「世の罪を取り除く神の子羊だ」と言ったので、イエスさまに、ついて行きました。そして、イエスさまから「何を求めているのか」と、尋ねられて、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。(ヨハネ1:35〜38)
この「泊まる」という言葉ですが、新約聖書が最初に書かれたギリシャ語では、「meno(メノー)」と言う言葉が使われています。この言葉には、「とどまる、待つ、残る、住む、続ける、生きながらえる、生き残る、宿る、泊まる」といった、多くの意味があります。
ヨハネの福音書では、この言葉が、40回も使われているのですが、ヨハネ福音書を書いた人は、とくに特別の意味を込めて、この言葉を使っています。この言葉を通して何かを伝えようとしています。
ヨハネ福音書15章1節以下に、イエスさまが、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われた、有名な聖書の個所があります。
その4節では、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。
この「つながっている」という言葉は、「泊まる」と同じ「メノー」という言葉が使われています。
イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、「何を求めているのか」とお尋ねになりました。これに対して、彼らは、「先生は、どこに泊まっておられるのですか」と、反対に尋ね返しました。
それは、今晩、泊まる所は、どこの宿屋ですか、ホテルですか、民宿ですかと、具体的な寝る場所を聞くと同時に、「どこに、とどまっておられるのですか」、「どこに、つながっておられるのですか」、「イエスさま、あなたはどなたですか。誰につながっておられるのですか」、「あなたは、神さまと、どのようなつながりがあるのですか」と尋ねている言葉でもあります。
イエスとは、何者か。誰なのか。どこから来て、どこへ行こうとしておられるのか。イエスさまと、神さまとは、どんな関係にあるのか、これこそが、聖書全体のテーマであり、同時に、いちばん、わかって欲しいと願っている所です。
イエスさまは、「来なさい。そうすればわかる」と言われました。そして、彼らはついていって、どこに泊まっておられるのかを見ました。この方が、どこにとどまっておられるのか、誰につながっておられるのか、誰であるか、どこから来た方なのか、神とどのような関係にあるのかを知って確かめました。 単に聞いて、見た、というだけではなく、この方を受け入れ、信じたことを意味します。
2人のうちの一人、アンデレは、兄弟シモン・ペトロに会い、「わたしは、メシア、救い主に出会った」と言って、信仰を告白し、証ししました。
彼らは、イエスさまのもとに泊まり、イエスさまに「とどまった」、「つながった」のです。イエスさまのもとに、とどまった結果、この方がどなたなのかが、ほんとうにわかり、受け入れることができました。そして、「証しする人」に変えられていきました。
今、イエスさまは、私たちの方を振り返り、「わたしに何を求めているのか」と、お尋ねになっています。
私たちも、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。すると、イエスさまは、「来なさい。そうすれば分かる」と、言われます。
私たちは、まず、腰を上げて、立ち上がり、一歩を踏み出して、ついていくことが大切です。キリストに従うことが、イエスさまのことを、ほんとうに知る第一歩です。
〔2020年1月19日 顕現後第2主日(A) 聖アグネス教会〕