「わたしについて来なさい.」

2020年01月26日
マタイによる福音書4章18節〜22節 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、2人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った。  そこから進んで、別の2人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この2人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 イエスは、ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。  先週の主日、顕現後第2主日(A年)の福音書として読まれた聖書の個所は、ヨハネによる福音書の1章29節から41節まででした。 先主日、礼拝に出席された方は、覚えておられると思います。その個所を、もう一度、ふり返ってみたいと思います。  イエスさまは、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから、洗礼をお受けになった後、その翌日のことですが、バプテスマのヨハネは、イエスさまが、歩いて来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、自分の弟子たちに言いました。(29節)  さらに、その翌日、バプテスマのヨハネは、2人の弟子と一緒にいて、向こうを歩いておられるイエスさまを見て、「見よ、神の小羊だ」と言いました。  ヨハネの弟子たちふたりは、それを聞いて、イエスさまに従って行った、ついて行ったと、記されていました。  その後、どうなったかと言うと、イエスさまは、後からついて来るふたりを振り返って、彼らに、「(わたしに)何を求めているのか」と言われました。  すると、このバプテスマのヨハネの弟子であったふたりは、「ラビ(先生)、どこに泊まっておられるのですか」と、尋ねました。  すると、イエスさまは、「(ついて)来なさい。そうすれば分かる」と言わました。  そこで、彼らはついて行って、イエスさまが、どこに、泊まっておられるかを見、その日は、イエスのもとに泊まりました。  バプテスマのヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに、従った2人のうちの一人は、アンデレで、このアンデレは、自分の兄弟シモン・ペトロに会って、「わたしたちは、メシア(救い主)に出会った」と言いました。そして、アンデレは、ペトロをイエスさまのところへ連れて行って、紹介しました。  すると、イエスさまは、ペトロを、ジーーっと見つめて、「あなたは、ヨハネの子シモンであるが、これからは、『ケファ(岩)』と呼ぶことにする」と、言って、早速、あだ名をおつけになりました。(ヨハネ1:42)  これが、ヨハネによる福音書に記された、イエスさまと、12人の弟子たちの中のアンデレとペトロとの、出会いの物語です。  これに対して、今、読んで頂きました、今日の福音書、マタイによる福音書4章18節から22節では、まったく違った、イエスさまと、ペトロと兄弟アンデレとの、出会い、また、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネとの出会いの物語が、記されています。  イエスさまは、ガリラヤ湖という湖のほとりを歩いておられたとき、ペトロとアンデレという2人の兄弟が、湖で網を打っているのを御覧になりました。彼らは漁師でした。  イエスさまは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。  すると、2人は、すぐに網を捨てて、イエスさまに従いました。  さらに、イエスさまは、そこから進んで行って、別の2人の兄弟、ヤコブとヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で、網の手入れをしているのを、御覧になり、彼らをお呼びになると、この2人もすぐに、舟と父親とを残して、イエスに従いました。(マタイ4:18〜22)  弟子たちは、イエスさまに、どのようにして出会ったかということについて、マルコ福音書と、ヨハネ福音書とでは、違うのですが、多分、別々に伝えられた資料、伝承があって、それに基づいて書かれたのではないかと、推測されています。  マルコによる福音書の3章13節には、さらに、このように記されています。(マタイ10:1-4、ルカ6:12-16)  「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは、そばに集まって来た。そこで、12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして12人を任命された。」  そして、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダの12名、さらにこのユダがイエスを裏切ったのであると記されています。  このように、4つの福音書には、イエスさまと、弟子たちとの出会い、また、12人の弟子たちが、特別に使徒として選ばれ、任命されたようすが記されています。  この弟子たちと、イエスさまの出会いには、それぞれ違った物語があるのですが、しかし、すべての物語には、共通点があります。それは、イエスさまから「わたしについて来なさい」または、「わたしに従いなさい」と言って招かれて、彼らは、今、持っている、網も舟も父親も、すべてをその場に置いて、立ち上がり、イエスさまに従ったということです。  イエスさまと、弟子たちの出会いと、その後の活動から、「信じるということ」と、「従うということ」について、考えたいと思います。  まず、ペテロとアンデレは、かれらは漁師でした。ガリラヤ湖のほとりで網を打って、魚を捕る漁をしていました。  イエスさまは、この2人に近づいて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。  すると2人は、すぐに、網も舟も捨てて、イエスさまに従いました。  さらに、別の所で、ゼベダイの子の2人の兄弟、ヤコブとヨハネも、イエスさまが、彼らをお呼びになると、この2人も、すぐに、舟と父親とを残してイエスさまに従いました。  このマタイによる福音書で見る限り、イエスさまは、ご自分の方から、自分自身、自己紹介をしておられませんし、ペテロも、アンデレも、ヤコブもヨハネも、この方について、何も知りません。  この人たちの前では、イエスさまは、何も教えていませんし、どんな奇跡も行ってもいません。  イエスさまは、まったく、初対面の人々に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招きました。招くというよりも、命令して、「ついて来なさい」と言われたのです。  これを聞いて、ペテロとアンデレの兄弟は、手に持っていた網を捨て、「すぐに」イエスさまに従いました。  さらに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟も、父親と、一緒に舟の中で、網を繕っていたのですが、イエスさまが、「ついて来なさい」と、声をかけ、お呼びになると、彼らも、舟も、父親も、そこに残して、イエスさまに従いました。  この時にも、「すぐに」従ったと、記されています。  聖書には、その時の場面の、背景や時間の経過については、それ以上のくわしいことは、何も記されていませんが、しかし、言いたいことは、ペテロも、アンデレも、ヤコブも、ヨハネも、「すぐに」立ち上がって、イエスさまに従ったのです。イエスさまに、ついて行ったということです。  もし、私たちなら、このような時には、どうするだろうかと、いろいろなことを考えてしまいます。  この人について行って、大丈夫だろうか。信用できる人なのだろうか。わたしに、一体何をしてくれるのだろうか。  ついて行って、自分の将来に、何か得になることがあるのだろうかなど、いろいろ考えます。  相手の人の身元調査をして、肩書きを見て、よく話を聞いて、人の噂も確かめて、そして、信用できるのか、信頼できる人なのかどうかを、確かめるに違いありません。  ここで問題になるのは、信頼が先か、従うことが先か、ということです。  たぶん、現在の教育の場では、信頼できないから、誰にでも知らない人には、ついて行ってはいけないと教えていますから、子どもたちでも、ついて行かないでしょう。  それでは、「信じること」と、「従うこと」とは、どちらが先なのでしょうか。  神さまを信じるかどうか。神さまが信じられるかどうか。神さまは、信じるに値するものかどうか。じっと、座って、考えても、どんなに考えても、簡単に答えは出てきません。  それよりも、まず、招きに応えることです。「ついて来なさい」と言われる、命令に従うことです。まず、神さまの声を聞いて、立ち上がることです。  ちょうど、椅子に座っている人に、「立ちなさい」といって、すぐに立ち上がるのと同じように、体を動かすことです。  まず、従いなさい。そうすれば、どのように信じればいいか、信じて生きるということは、どういうことかがわかります。  ペテロも、アンデレも、ヤコブも、ヨハネも、「わたしについて来なさい」と言われて、まず、立ち上がり、そして、歩き始めました。生活の手段である魚をとる網も、舟も、父親さえもそこに残して、言いかえれば、経済的な裏付けや将来の生活の心配、損や得を越えて、それらのものを全部捨てて、イエスさまに従ったのです。  イエスさまの弟子になったのです。  「信じられたら、そのうちに、従います」という考え方では、イエスさまの弟子にはなれません。神の国を受け取り、永遠の生命に至る道、ほんとうの幸せに触れることはできません。  ペテロとアンデレは、すぐに網を捨てて、イエスさまに従いました。ヤコブとヨハネも、すぐに、舟と父親とを残して、イエスさまに従いました。  私たちは、今、イエスさまとは、どのような関係でしょうか。  ただ、洗礼を受けて、クリスチャンになって、イエスさまを、遠巻きにして、取り巻いている群衆の後から、かろうじて、ついて歩いている状態ではないでしょうか。  イエスさまが、近くにいて、招いてくださっているのに、無視して、目をそらして、過ぎ去っていかれるのを見守っているだけでしょうか。  私たちが、クリスチャンであることを自負するならば、「わたしに従いなさい」という声を、しっかり、受け取り、「はい!」と言って、立ち上がりたいと思います。  黙って従うことを「従順」と言います。信仰が先か、従順が先か。信仰があれば、従順になれる。従順は、信仰の結果だと思っています。しかし、信仰と従順は、表裏一体です。   従順、「従うこと」がともなわない信仰は、一人よがりの、身勝手な頭の中だけの、思い込みに陥ってしまいます。  ペテロも、アンデレも、自分の頭の中でする、考えや決心だけでは、イエスさまを信じようとする回心はできませんでした。しかし、自分の意思で、自分の決心で、自分の網を捨て、自分の舟を捨てることはできました。  しかし、どちらの方向に向かって歩けばよいのかわかりません。  そこに、イエスさまの「招き」がなければ、歩き出すことはできません。  イエスさまは、「わたしに従いなさい」と言って、招いて下さいます。この招きこそ、ほんとうの新しい生活に招きいれるキリストの「恵み」です。  その恵みに目覚めることこそ「信仰」なのです。  私たちは、神さまを、イエスさまを、信じられるかどうかを、考え込むだけで、イエスさまに従おうとしなければ、ほんとうの信仰は得られません。  こんな時、イエスさまなら、どう言われるか、イエスさまなら、どうなさるかを考え、イエスさまの「招き」の言葉に耳を傾けることです。もし、それが聞こえたら、勇気と忍耐をもって、その言葉に、ひたすら従うことです。  「ほんとうに従順な者だけが、ほんとうの信仰を持つことができます。」                 〔2020年1月26日  顕現後第3主日  於・聖 光 教 会〕