「しかし、わたしは言っておく。」
2020年02月16日
マタイによる福音書5章21節〜24節、27節〜30節
(21)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。(22)しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(23)だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、(24)その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
(27)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。(28)しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(29)もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。(30)もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
今、読みました今日の福音書は、「山上の説教」とか「山上の垂訓」呼ばれる、イエスさまが、山の上で、集まった群衆や弟子たちに向かって、語られた「教え」の一部です。
最初の、21節から24節までの教えには、聖書では「腹を立ててはならない」という「見出し」がついています。
イエスさまは言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に、腹を立てる者は、だれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院(いわゆる裁判所)に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とあります。
これは、旧約聖書の出エジプト記20章13節に「殺してはならない」と記されている、モーセの十戒の中の第6番目の掟です。また、民数記35章30節、31節には、「人を殺した者については、必ず、複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。‥‥‥ 彼は、必ず死刑に処せられなければならない。」と記されています。
人を殺した者は、必ず死刑に処せられるという、裁きを受けなければなりません。「目には目を、歯には歯を」、「命には、命をもって償う」というのが、その当時のユダヤ人にとっては、当たり前のことでした。
ところが、イエスさまは、「しかし、わたしは言っておく」と前置きした上で、人を殺すどころか、「兄弟に腹を立てる者は、だれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。イエスさまが、人々に求める生き方は、人に「バカ」というだけで、「愚か者」と云うだけで、裁きを受ける、死に値いすると、言われます。その内容は、目には目を、歯には歯をどころか、目には命を、歯には命をと、言わんばかりの厳しい報復です。そんなに不公平な、バランスがとれない「裁き」があっていいのかと思います。
しかし、この、イエスさまの教えの裏には、イエスさまが言いたいことがあります。それは、「人を裁くな」、「ほんとうに、人が、人を裁くことができるのか」という主張、問いかけがあります。
さらに、次の段落、マタイ福音書の5章27節〜29節を見て下さい。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は、だれでも、既に心の中で、その女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」
「『姦淫するな』と命じられている」。これも、また、出エジプト記20章14節、申命記5章18節に記されている「姦淫してはならない」というモーセの十戒の7番目の掟です。
姦淫とは、男女間の不道徳な行為、みだらな行為、未婚者の性行為、不倫、強姦などが挙げられます。
旧約聖書、申命記22章24節には、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男も、その女も、共に殺して、イスラエルの中から、悪を取り除かねばならない。‥‥その2人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」と記されていて、その当時の性的な関係に対する厳しさ、その罪と罰について、細かく定められていました。
ところが、イエスさまは、これに対しても、「しかし、わたしは言っておく」と前置きした上で、みだらな思いで他人の妻を見る者は、だれでも、既に心の中で、その女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と教えられます。
現在の言葉で言い換えれば、道を行く美しい女性を見て、きれいだなと思ったら、それはもう姦淫罪を犯したのと同じだ、右の目がその女性を見たらその目をえぐり出して、捨ててしまえと、言われるのと同じです。私なんか、目がいくつあっても足りません。すでに何回も盲人になっています。
イエスさまの教えの厳しさは、その当時でも、現在でも、私たち人間が、どんな人間でも、足もとにも及ばないほど、厳しいものだったということができます。
では、なぜ、イエスさまは、このように不可能と思われるような生き方を、人々に、また、現在の私たちに、求められるのでしょうか。このような厳しい裁きを命じられるのでしょうか。
そこには、その当時のユダヤ人の多くが持っていた「律法主義」に問題がありました。ほんとうに、人間が、人間を、裁くことができるのか、誰が人を裁くのか、という根本的な問題を、人々に突きつけておられるのです。
イエスさまが、「しかし、わたしは言っておく」と前置きして語られる、イエスさまの思いを知るために、具体的な例を、別の聖書の個所から、考えてみたいと思います。
ヨハネによる福音書第8章1節〜11節に、「姦通の女」という見出しがついた、イエスさまと一人の女性の出来事が記されています。
イエスさまは、ある時、朝早く、神殿の境内に入られました。すると、多くの人々がイエスさまのところにやって来たので、イエスさまは、いつものように、座って教え始められました。そこへ、ユダヤ教の律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫を犯している現場で捕らえられた女性を連れて来て、イエスさまが話しておられる人々の前に立たせました。 その女性が、結婚している女性か、独身の女性かわかりません。当時、神殿の周りでは、神殿娼婦といわれる、体を売って生計を立てている女の人たちもいたそうですから、そういう女性の一人だったのかも知れません。
いずれにせよ、この女の人は、姦淫の現場を取り押さえられて、引っ張ってこられました。そして、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスさまに言いました。
「先生、この女は、姦通をしているときに捕まりました。姦淫を犯したこういう女は、石で打ち殺せと、モーセの律法に記されています。掟に従って(レビ記20:10、申命記22:24、エゼキエル16:38、40)、これから、この女に石を投げて殺そうと思いますが、ところで、あなたはどうお考えになりますか。」彼らは、ほんとうに、どうして良いのかわからなくて、イエスさまに尋ねに来たのではありあせん。イエスさまを試して、訴える口実を得るために、このように言い寄ってきたのです。それは、イエスさまにとって、非常に危険な質問でした。もし、イエスさまが、そんな女は、モーセの掟に従って、石で打ち殺されるべきだと言ったら、日頃、神さまは、すべての人の罪を赦してくださる、神さまはすべての人を愛してくださる、人を愛しなさいと、説いているイエスさまの教えと、矛盾します。イエスさまに、新しい教えを求めて集まって来ている人々に失望させることになります。
反対に、イエスさまが、「この女を打ち殺してはいけない」と言うと、モーセの律法を否定することになります。この女は、姦淫の現場で押さえられたのですから、誰が見ても明らかに姦淫の罪を犯しています。そんな女をも「赦せ」というと、ユダヤ人の感覚からすると、社会の公序良俗に反することだと言い、さらに、モーセの律法や神の言葉を冒涜するものだということで、反対にイエスさまに、石を投げてつけて、殺そうとする口実を与えることになります。
イエスさまは、黙って、かがみ込んで、指で地面に何か書いておられました。律法学者やファリサイ派の人々は、いきり立って、イエスさまに、さらに、しつこく問い続け、迫りました。すると、イエスさまは、身を起こして言われました。
「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして、また、身をかがめて地面に何かを書き続けられました。
これを聞いた人たち、両手に石を持って、今にも石を投げつけようとしていた人たちの動きが止まりました。そして、年を取った者から順に、ポトリ、ポトリと、その場に石を落とし、一人また一人と、立ち去って行きました。
そこには、イエスさまと、むりやり連れて来られた女性だけが残っていました。イエスさまは、身体を起こして言われました。「婦人よ、あの人たちは、どこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
今、まさに、殺されようとする恐怖のために、地面に突っ伏し、石を投げつけられようとしていた、その女性は、顔を上げて周りを見回し、「主よ、だれも(いません)」と言いました。すると、イエスさまは言われました。「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
これが、ヨハネの福音書に記されている「姦通の女」と見出しがついた出来事です。イエスさまは、この出来事の中で、語られた言葉は、たった3つだけです。
まず、第一の言葉は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。このひと言は、罪とは何か、罪人とは誰か、という問題を、そこに集まっている人たち、一人一人に突きつけました。
あなたたちは、人に向かって、人の罪は追求するけれども、ところが、「あなた自身は、罪を犯したことは一度もないか」と、問われます。人を糾弾する矢が、石を投げようとして、いきりたっている人に、自分に方に向かって、飛んできたのです。自分の問題として突きつけられました。
律法学者やファリサイ人、そこにいるユダヤ人たちは、この女は、自分たちが住む社会の秩序、道徳を破った、神の正義を踏みにじった、社会に害を与えた加害者だ。そのために、自分たちは、この女から害を被った被害者だという立場に立って、石を投げようとしていました。自分たちこそ、正義の味方、自分たちは、正しいという思いに、満ちあふれて、石を投げつけようとしていました。
しかし、イエスさまの「あなたたちの中で、生まれてこのかた、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた、この言葉は、自分たちは、被害者であると考えている人々に、あなたたちにも、加害者となる可能性は、全くないのかと、問われたのです。生まれてこのかた、神さまの前に、罪を犯したことはないと、言い切れる人はいるのか。社会の秩序を乱す行為をしたことは、一度もないと、言い切れる人はいるのかと、イエスさまは問われました。
どんな人でも、すべての人が、神さまの前に立って、罪を犯したことはないとは、言いきることはできません。
これに対して、律法学者やファリサイ派の人々は、ただ、律法解釈を振り回し、弱い人に押しつけている偽善者に過ぎません。律法を表面的に、文字面だけで、丸暗記して、これを形式的に守ってさえいれば、自分たちは正しい、それだけで、神の救いが保障されているのだと考えていました。それどころか、律法を知らない人、律法を守れない人たちを攻撃し、差別して来ました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたこの言葉に、胸を刺された人々は、自分たちに、この女性を裁く資格はないのだという、反対に自分の罪の自覚を突きつけられて、こそこそと、その場から姿を消して行きました。
さらに、イエスさまの二番目の言葉です。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
ここで大切なことは、石を投げる者がいなくなったので、この女の人は、自分は、助かったのだということだけではありません。姦淫の罪を犯し、その現場で取り押さえられたという事実は消えたわけでもありません。しかし、石を投げる者がいなくなったということは、人間が人間を裁くことはできないという意味で、人間の裁く者がいなくなったというだけです。しかし、裁く者がいなくなっても、この女性の罪はまだ残ったままです。ほんとうに救われたことにはなりません。いいかえれば、もし、裁く者がなければ、この女性は一生自分の罪を負って、苦しんでいかなければなりません。
赦す者がいないからです。目に見える石は飛んでこないかも知れませんが、この女性の罪は残されたままです。まだ救われていません。
そこで、イエスさまの第三の言葉が、この女性を救いに導きます。「わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
イエスさまの「わたしも、あなたを罪に定めない」というこの言葉で、この女性は赦されました。神の子として、この世に遣わされ、すべての人々の罪を償い、解放される力を持ったこの方の、この言葉によって、罪の赦しが与えられ、この女性は、初めて、心の底から、解放されたのです。
そして、「行きなさい」というこの言葉によって、罪を負って人生を歩むのではなく、イエスさまによって罪を赦され、新しい生命、新しい人生を歩む者とされたのです。
「もう罪を犯してはならない」という言葉で、神さまを拒むことがないような、イエスさまを拒むことがないような生き方が示されました。
私たちも、毎日の生活の中で、「殺すな」、「姦淫するな」というような言葉を丸覚えして、これだけを守っていれば正しいのではありません。
私たちは、様々な、あらゆる人間関係の中で、家族の中でも、勤め先でも、学校でも、人の醜さや、人の弱さについて、非難し合ったり、批判し合ったりしています。その中で、いつも自分は、正しい、正義の側に立っていると言い張って、人を裁いています。われこそは、正義の味方だと言わんばかりに、人の過ちや罪を追求し、赦せぬと言い、人の罪を糾弾し続けています。しかし、果たして、わたしたちは、ほんとうに、人を裁くことが出来るのでしょうか。ほんとうに、人を裁くことができるのは、誰なのでしょうか。そのことを自分に向かって問うとき、人に向かってばかり、石を投げつけることはできません。「ばか」とか「愚か者」と言うことも、できません。神さまと、自分自身との関係、イエスさまと、わたしとの関係の中で、人々と、自分との関係を見直すことが、信仰に生きるということではないかと思います。
私たちが正義づらをして、喚いているとき、イエスさまは、私たちの前に立って、言われます。「しかし、わたしは言っておく」と。
今日の福音書、マタイによる福音書5章22節を、もう一度見てください。イエスさまは、言われました。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
さらに28節、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
ただ、律法や、掟の厳しさを、語られただけではなく、「しかし、わたしは言っておく」と、繰り返されました。イエスさまは、モーセの十戒やその他の掟を無効にしたり、どうでもよいと言っておられるのではありません。イエスさまは、「しかし、わたしは言っておく」という言葉の中で、十戒や旧約時代の教えを、完成されたのです。「しかし、わたしは言っておく」と、念を押して、語られた、そのお言葉の奥にあるイエスさまの思いを、しっかりと、受け止めたいと思います。
〔2020年2月16日 顕現後第6主日(A) 聖アグネス教会〕