「これに聞け」

2020年02月23日
マタイによる福音書17章1節〜9節 (1)6日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(2)イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(3)見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。(4)ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5)ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(6)弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。(7)イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」(8)彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 (9)一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。  教会の暦では、降臨節、降誕節、顕現節と続き、春の到来とともに、いよいよ「復活日」を迎える準備の時、今週の水曜日、2月26日から「大斎節」に入ります。そして、今日は、その大斎節に入る前の主日ということで、「大斎節前主日」と名付けられた主日です。 今、読まれました今日の福音書、その直前の個所では、イエスさまは、「ご自分が、必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と言われ、弟子たちに、はじめて、ご自分の身に起こるであろう、死と復活について、予告されました。(マタイ16:21)  その直後のことでした。イエスさまは、12人の弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、そして、その兄弟ヨハネの3人だけを連れて、高い山に、登られました。  その山は、「高い山」と記されているだけで、どこの、どの山か、わかりません。パレスチナのガリラヤ湖という湖の南の端から、西南西に約20キロ、イエスさまが育たれたナザレの村から、東南に約10キロのところに、標高588メートルの「タボル山」という山があります。私たちがよく知っている比叡山は、標高848.1メートルですから、それほど高くない山だったと思われます。  しかし、このタボル山のまわり一帯は、エズレル平原という平原が広がり、その中で、タボル山は、お椀を伏せたような、孤立した、なだらかな山で、平原の四方を見渡せる山です。その山が、「高い山に登られた」と記されている山だったのではないかと、伝えられています。  その山の上で、何が起こったのでしょうか。  突然、弟子たちの目の前で、イエスさまのお姿が変わられたのです。  どのように変わったのかと言いますと、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています(17:2)。同じことを書いた、マルコによる福音書では、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と言っています(9:3)  イエスさまの顔も衣服も真っ白になり、太陽のように光り輝かれたのです。  弟子たちは、その、不思議な光景を目にしました。  そこに、モーセとエリヤが現れ、イエスさまと話し合っておられたというのです。モーセは、イエスさまの時代から、1300年ぐらいさかのぼった昔の、預言者です。エリヤも、860年ぐらい前の預言者です。  イスラエルの人たちは、「十戒」をはじめ、神の律法は、モーセを通して与えられたということは、誰でも知っています。また、エリヤは、預言者たちが活躍したユダヤ王国の分裂時代に、北イスラエルで、最もよく知られている最初の預言者です。ふたりとも、預言者の中の預言者として知られています。  この聖書の個所を読んでいて、私は、いつも思うのですが、写真も肖像画もないその時代に、弟子たちは、この2人の人たちが、モーセとエリヤだということが、どうしてわかったのでしょうか。不思議に思うのですが、この3人の弟子たちには、その光景からイエスさまが、律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤを相手に、親しく語り合っておられると、すぐに解ったのです。  そこで、ペトロは、思わず口走りました。  「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしが、ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つは、エリヤのためです」と言いました。  その当時のユダヤ社会の習慣に、秋の収穫祭として、「種入れぬパンの祭り」、「七週の祭り」、そして、「仮庵の祭り」という3つの祭りがありました。その一つが「仮庵の祭り」という祭りで、ぶどうやオリーブの収穫が終わった後、畑に木の枝で編んだ小屋を造って、そこに7日間寝泊まりするという、祭りのしきたりがありました。(レビ記23:39)  山の上で、イエスさまが、モーセとエリヤと、3人で、話しておられる場面を見て、ペトロは、舞い上がってしまって、頭が真っ白になり、自分が何を言っているのかわからなくなって、思わず、口走りました。 「主よ、わたしたちがここにいるのは、(なんて)すばらしいことでしょう。お望みでしたら、わたしが、ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と。ペトロがとっさに思いついた、感謝、感激、感動の気持ちを現す方法は、あの「仮庵の祭り」の祝いかたでした。  そのうちに、光り輝く雲が、彼らを覆いました。  すると、その雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が、聞こえました。  これを聞いて、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの、3人の弟子たちは、思わずひれ伏し、非常に恐れを感じました。  彼らは、頭も上げられず、ひれ伏していると、イエスさまが近づいて来て、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない」と。彼らが、顔を上げて見ますと、そこには、イエスさまのほかには、誰もいませんでした。  イエスさまは、その3人の弟子たちに、「わたしが、死者の中から復活するまでは、今、見たことを誰にも話してはならない」と、口止めされました。  これが、山の上で、イエスさまのお姿が変わられたという神秘的な出来事と、それを見た弟子たちの反応です。  この「主イエス変容貌」の出来事は、マタイ福音書だけではなく、マルコ福音書(9:2-13)にも、ルカ福音書(9:28-36)にも記され、伝えられています。たぶん、初代教会の時代から、イエスさまのことを伝えるだいじな出来事だったに違いありません。  イエスさまが、エルサレムに向って行かれるということは、十字架に向かって、近づかれるということでした。イエスさまを待っているのは、逮捕され、引き回され、裁判にかけられ、鞭打たれ、いばらの冠を被せられ、ののしられ、嘲りを受け、十字架を担いで、ゴルゴタの丘まで歩かされ、十字架に釘付けにされ、十字架の上で、苦しみもだえながら死ぬということでした。  このイエスさまの変容貌の出来事の大切な意味は、一つは、神の子、神であるイエスさまが、私たちと同じ肉体をとって、一人の人として、この世に来られた、そのイエスさまが、ある瞬間、神の栄光を受けられた、人間となられた神さまが、この瞬間、神に戻られたということではないでしょうか。イエスさまの姿が、彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そして、光り輝く雲に覆われました。それは、イエスさまが、神の栄光を表されたことを示す光景でした。人間となられた神が、一瞬、神となられた、神さまが、神さまに戻られた瞬間でした。  これから、「多くの苦しみを受け、殺されようとする」、いよいよ、その苦しみの道を歩み出そうとされる時、父である神さまと、子であるイエスさまが、交信し、確認し合っておられた場面のように思われます。  私たちと同じ肉体を取って、人となった神の子に、父である神さまが「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、神さまが愛を確認し、エールを送っておられる場面だったのではないでしょうか。  次に、これに対する、私たちと同じ人間である、弟子たちの対応です。その光景を見て、ペトロは、舞い上がってしまって、興奮し、思わず口走りました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしが、ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と。  もし、私たちが、日本人として、その場に居合わせたとすると、歴史的な出来事を、精一杯、思い出しながら、「ここに、神社を建てましょう」、「祠を建てましょう」、「銅像を建てましょう」などと、言ったかも知れません。  ペトロは、この感激、感動を、忘れないように、私たち人間の目に見えるかたちで、何かをしなければ、何かを残さなければと思い、「仮庵の祭り」のしきたりに従って、「仮小屋を3つ建てましょう」と、提案しました。  その時、「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。  イエスさまが、初めて、人々の前に、姿を表し、ヨルダン川で、洗礼を授けていたバプテスマのヨハネの所に来られました。そして、そこで、イエスさまは、ヨハネから洗礼をお受けになりました。  マタイによる福音書3章16節に、このように記されています。  「イエスは、洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16-17)  イエスさまが、洗礼をお受けになった時、天から聞こえた神さまの声と同じ言葉が、この山の上でも聞こえたのです。  母親が、隣りの部屋にいる、小さな子どもに声をかけるように、父である神さまが、子であるイエスさまに「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って、繰り返し、繰り返し、愛のメッセージ、愛の言葉を掛けておられます。  しかし、イエスさまが洗礼をお受けになった時に聞こえた天からの声と、山の上で、弟子たちが聞いた声には、少し、違いがありました。  それは、山の上で、ペトロたちが聞いた声には、最後に「これに聞け」という言葉がついています。英語の聖書では、「彼に聞け(listen to him)」となっています。  たぶん、この言葉「彼に聞け」は、ペトロが口走った「仮小屋を3つ建てましょう」と提案した言葉に対する応答、答えだったのではないでしょうか。  ペトロは、「建てましょう」と言いました。これに対して、雲の中から聞こえた声は、「聞きなさい」と命じました。  この「建てる」と「聞く」のふたつの言葉を比べてみますと、イエスさまが、真っ白に輝き、姿が変わられたという出来事について、ペテロは「仮小屋を3つ建てる」ことを発想しました。  たぶん、これは、私たちの発想と同じです。何でも目に見えるかたちで、物事を証明して見せるということ、技術的な展開や、科学的な解決でなければ、納得しないという考え方です。建てれば終わる、答えが出たと考えます。それ以上、先のない考え方です。今、私たち人間が、直面している袋小路そのものです。  これに対して、雲の中からの声は、「彼に聞け」、「イエスに聴きなさい」と命じます。  イエスさまの言葉は、いつも新しく、しかも、生きるということの核心にかかわる言葉です。私たちの生きるということの核心に迫る「彼に聞け」なのです。声でも、音でもない。まさしく、この人に聞け、なのです。そこに、出会いがあります。出会うことによって、この方の深い愛に触れます。  この人から、もっと、もっと、聞きたい、もっと、もっと知りたいと、願うようになります。  だから、「建てれば終わる」愚かさを、繰り返すのではなく、ペテロとその他の弟子たちは、この方の言葉に、ひたすら、耳を傾け、聴くように、生涯、招き続けられているのです。この方に、聞かずにはいられないのです。  目に見える、建てたらおしまい、集まって、話をして、議事録を残せばおしまいではない、生きた言葉に触れ、心が動かされ、ほんとうの愛に触れる、この方の言葉に、ひたすら耳を傾けなさい、この方に、ほんとうに出会いなさい。この方を受け容れなさいと、雲の中からの声は、命じます。  今週の水曜日から、大斎節に入ります。いつもより、もっと、もっと、イエスさまの言葉に、耳を傾けたいと思います。 〔2020年2月23日 大斎節前主日(A年) 於・聖光教会〕