「退け、サタン。」

2020年03月01日
マタイによる福音書4章1節〜11節 (1)さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 (2)そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 (3)すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 (4)イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 (5)次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、(6)言った。 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、  あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」 (7)イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 (8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 (9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 (10)すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 (11)そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。  今日の主日は、「大斎節第1主日」ですが、この日の福音書では、毎年、イエスさまが、聖霊に導かれて、荒れ野で、40日間、断食をし、祈られたという聖書の個所が読まれます。 ここには、「悪魔」が登場するのですが、悪魔とは、いったい、何でしょうか。何ものなのでしょうか。  悪魔は、私たちが住んでいるこの世にも、現在でも、それは、いるのでしょうか。  すべてをお造りになった、創造主である神さまは、悪魔もお造りになったのでしょうか。  「悪魔」とは、どのようなものなのでしょうか。  この説教の原稿を書いている時、机の横にあった、新聞を見ますと、千葉県野田市の小学校4年生の桑原心愛(みあ)ちゃんという女の子が、自宅で、父親から虐待を受け、死亡したという事件で、父親が傷害容疑で逮捕され、裁判が行われたということが、報じられていました。  父親の栗原という容疑者は、昨年1月24日、午前10時頃から午後11時20分頃まで、自宅で、心愛ちゃんに、服の上から、シャワーで、冷い水を浴びせたり、首付近をわしづかみにして虐待し、けがを負わせた疑いで逮捕されました。駆けつけた救急隊員が浴室で倒れている心愛ちゃんを発見した時には、すでに、死亡していました。体にはあざが複数あり、近所の人たちからは、以前から女の子が泣きわめき、「お母さん、怖いよ」と叫ぶ声や、「うるさいんだよ」という男性の声を何度も聞いていたということでした。傷害容疑で逮捕された父親は、「生活態度を注意したら、もみ合いになった。うるさくて暴れるので、しつけのためにやった」と、供述していました。母親は、父親が、心愛ちゃんを、繰り返し床に打ちつけたり、玄関で屈伸をさせ続けさせたりして虐待行為をしていたことを詳細に述べ、「心愛は、呼吸がしづらそうで、『胸が苦しい』と言っていたと、証言しました。  母親は、すでに虐待行為の手助けしたということで、傷害幇助罪の判決を受け、有罪が確定していました。  本来、子どもを守るべき両親が、10歳の子どもを虐待死させたという、この事件の裁判について、皆さんもご存知だと思います。  なぜ、そんなことが起こったのか、理由がつかない、わけのわからない虐待行為や、殺人、破壊行動は、毎日のように、ニュースの中にあふれています。そのような、日々起こる事件や出来事の中にも、一人ひとりの人間の心に中にある、悪魔、サタンが、猛威を振るっていると言うことができるのではないでしょうか。  また、歴史をふり返っても、戦争や略奪、残酷な事件が、あふれ、今日、この瞬間にも、悪魔が力を振るっている事件が起こり、続いています。  それらの、戦争や殺人や略奪、虐待などのすべての不幸な出来事の原因は、私たち人間の、一人ひとりの心の中にある「悪」にあると、言えるのではないでしょうか。  人の身体に傷をつけたり、殺したりする、目に見える悪は、ある意味では、わかりやすいのですが、しかし、目に見えない精神的虐待、差別や断絶、無視することなども、人間の心に中にある、「善意」とはまったく反対の「悪意」が原因によって起きるのではないでしょうか。  悪とか、悪意は、一人一人の心の中にあります。また、一人一人の心にある悪は、それが集まって、一つの目的をもって「力」となり、社会悪となります。  この「悪」が人格化されて、独立した人間のように扱われた時、それを「悪魔」と言います。それは、たとえて言えば、「わたしの中に悪魔が住んでいる」などと表現されます。  悪魔という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「サタン」、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「ディアボロス」、英語では、デヴィル、デーモンと言います。この「サタン」という言葉は、反対する、妨げる、非難する、などという意味を持っています。そこから、さらに、サタンは、逆らう者、敵対する者、とがめる者、誘惑する者などという名前を持ち、力をふるいます。  私たちは、「悪魔」や「サタン」というと、目をギラギラさせ、口が耳までさけ、耳がとんがり、真っ黒で、尻尾がはえた、漫画や絵本に出てくる「アクマ」やサタンの姿を思い浮かべます。しかし、そのような動物が、この世に居るのではなく、先ほど言ったように、私たちの心に中にある「悪」「悪意」が人格化され、別人のように描かれたものが、サタンであり悪魔なのです。  聖書の中には、悪魔や、サタンが、たびたび、登場します。  創世記の最初、アダムとエバの物語の中に、ヘビが出てきます。そこに出てくるヘビは、「神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いもの」と紹介されていて、「誘う者、誘惑する者、そそのかす者、騙す者」として、イヴを誘惑し、そして、今度は、イヴが、サタンの役割を果たしています。  また、ヨブ記では、サタンは「試す者」「試みる者」であり、サタンは、ヨブについて、神さまと、取り引きをします。  悪魔とは、神さまに敵対する力であり、それを具体的な姿や形で現したものとして、現れます。  新約聖書では、悪魔は、悪霊を手下に持つ首領であり、イエスさまの時代には、病気や不幸の原因は、すべて悪魔や悪霊の仕業によるものだと信じられていました。(マタイ12:24)  さて、前置きが長くなりましたが、今日の福音書を、もう一度、見て頂きたいと思います。  イエスさまは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから、洗礼をお受けになった後、聖霊によって、荒れ野に導かれました。  イエスさまは、その荒れ野で、40日40夜、断食をし、祈っておられました。そこで、イエスさまは、「空腹を覚えられた」と、ひとことで、簡単に言っていますが、それは、生身の人間として、肉体の限界に達しておられる状態だったのであろうと思われます。  食欲という欲望は、人間として、生命を維持するために、きびしく体に訴えてきます。そこに、「誘惑する者」すなわち、悪魔が、登場して来たのです。それは、ご自分の心の中の悪魔のささやきであり、誘惑の声でした。  「わたしが、ほんとうに神の子であれば、この石に向かって、パンになれと命じてみてはどうだろうか。わたしは、そのような力を持っているはずだ。すぐに、パンに変えることができるはずだ」と、心の中のサタンは語りかけます。  それは、同時に、イエスさまご自身が、ほんとうに、自分は神の子なのかどうか、ほんとうに神の子としての力があるのかどうか、神さまを、試させようとする誘惑です。  その最初の誘惑に対して、イエスさまは、お答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と、聖書に書いてある」と言って、自問自答の結果、きっぱりと、自分の中にある、悪魔のささやきを、退けられました。聖書の言葉をもって、きっぱりとお答えになりました。それは、申命記8章3節の言葉です。  「あなたの神、主が導かれた、この40年の荒れ野の旅を、思い起こしなさい。これによって、主は、あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」  イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4)と答えて、悪魔を退けられました。 しばらくすると、誘惑する者、悪魔が再び現れ、今度は、イエスさまを、聖なる都、エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせました。心の中のサタンと向き合わせられました。「ほんとうに、わたしが神の子なら、ここから飛び降りてみてはどうか。『神があなたのために、天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてあるではないか。」と。  先に、最初の誘惑に対して、イエスさまから、聖書の言葉で退けられた心の中の悪魔は、その次には、聖書の言葉を使って、イエスさまを試そうとします。それは、詩編91編9節以下の言葉でした。「あなたは、主を、避けどころとし、いと高き神を宿る所とした。あなたには、災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主は、あなたのために、み使いに命じて、あなたの道のどこにおいても、守らせてくださる。彼らはあなたを、その手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」とある。聖書に、このように言われているではないか。神に寄り頼み、神を慕う者には、神は、どんな災難からも、病気からも守ってくださる。あなたが、どこにいても天使に命じて守ってくださる。天使たちは、あなたを手に乗せて運び、足が石に当たらないようにしてくださると、神は、詩編の中でそう言っているではないですか。さあ、だから、わたしが、ほんとうに神の子なら、ここから飛び降りられるはずだ。」という、悪魔の声が聞こえました。  これに対して、イエスさまは、言われました。  「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、言われました。これは、申命記6章16節の「あなたたちが、マサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という聖書の言葉を指しておられます。  これも、かつて、イスラエルの民が、エジプトを脱出した時、荒れ野で、イスラエルの民に飲む水がなく、人々がモーセに向かって「われわれに飲み水を与えよ」と言って迫りました。モーセは「なぜ、わたしと争うのか、なぜ主を試すのか」と言いました。モーセが「どうすればいいのですか」と神に祈った時、神は、モーセに、杖で岩を打てと教えます。モーセが言われたように杖で岩を打つと、そこから水が湧き出て、人々は水を飲むことができたという出来事がありました。モーセは、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。それは人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、神を試みたからであると記されています。(出エジプト記17:1-7)  イエスさまは、イスラエルの民にとって、忘れられないこの事件を思い起こしながら「お前の言っていることは神を試させようとすることだ」と言って悪魔を退けました。  さらに、悪魔と、イエスさまの対決は、3番目の試みに進みます。悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々と、その繁栄ぶりを見せて、イエスさまの心の中のサタンは、ささやきました。  「もし、わたしに、ひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみんな、あなたに与えよう」と。  心の中の悪魔は、もし、今、ここで、この私に屈服して、ひざまずいて、わたしを礼拝するなら、この世界のすべてを支配する権力を与えようと言いました。すべての栄誉、栄華、名誉、誰もが服従する権力、富、世界中のものを、みんなあなたにあげようと提案しました。これ以上の大きな誘惑はありません。それは、神の子の上に立つ、神になるということです。  アダムとエバに、ヘビが誘惑した言葉は、「これを食べると目が開け、賢くなり、神のようになるでしょう」でした。  わたしたちと同じ肉体を持ち。人間となられたイエスさまは、私たちと同じ、欲望、野心をも、引き受けておられます。  さあ、どうだ、すべての栄誉、栄華、名誉、誰もが服従する権力、富、そのような力が欲しいだろう。しかし、それには条件がある、それは、神に、ではなく、心の中にある悪魔、わたしの前にひざまずき、わたしを礼拝することだと言います。  これに対して、イエスさまは、言われました。  「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」  これも、申命記6章13節の言葉です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ、仕え、その御名によって誓いなさい。」これは十戒の第1の戒めの命令です。わたしのほかに何ものも神としてはならない。偶像を拝んではならない。主である神のみを、礼拝しなさいと聖書に書いてある。「黙れ、サタン、悪魔よ、退け」とお命じになりました。  イエスさまは、「サタン、退け」と言って、そのすべてを退けました。  これによって荒れ野での悪魔は退散しましたが、しかし、それ以後、サタンは2度と現れなかったのでしょうか。そうではありませんでした。イエスさまが、父である神さまのみ心に従おうとすると、必ず、そこに悪魔が現れて、これを引き戻そうとします。思いだしてください。  イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると、弟子たちに打ち明けられた時、ペトロは、イエスをわきへお連れ行って、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、いさめました。イエスさまは、ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは、わたしの邪魔をする者だ」と、言われました。 ペトロが、悪魔の役割を果たしました。(マタイ16:21〜23) そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスさまをののしって、言いました。「神殿を打ち倒し、3日で建てると言ったではないか。もし、ほんとうにお前が神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と。(マタイ27:38〜44)  さらに、祭司長たちも、律法学者たちや長老たちも、イエスさまを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。それでもイスラエルの王と言えるか。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と言いました。  それだけでなく、一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。  十字架につけられ、苦しみもだえている時、群衆も、祭司長や律法学者たちも、一緒に十字架につけられている罪人たちも、悪魔となり、悪魔の役割を果たし、最後の瞬間まで、イエスさまを誘惑し続けました。  しかし、そこでも奇跡は起こりませんでした。主イエスは、彼らには、何もいわず、静かに息を引き取られました。  その瞬間、その時にこそ、その十字架こそ「サタンよ、退け」と、イエスさまが、完全に、悪魔を撃退された瞬間でした。  大斎節、イエスさまが、悪魔の誘い、心の中のささやきに打ち克たれたことを学ぶと共に、私たちの心の中にある悪魔のささやきを振り払い、同時に、自分自身が誘惑する者、悪魔の役割を演じていることはないか、ふり返る時だと思います。 〔2020年3月1日 大斎節第1主日(A) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕