見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。
2020年03月22日
ヨハネによる福音書9章1節〜13節、28節〜37節
今日の福音書は、ヨハネによる福音書の9章全体におよぶ長い奇跡物語です。聖書には、「生まれつきの盲人をいやす」という「小見出し」がついています。
ヨハネによる福音書9章には、いろいろな人物が登場します。7つの場面からなっている物語で、この物語を通して、見えなかった人が見えるようになり、見えているはずの人たちが、見えていなかった。何が問題なのかということを、私たちに、つきつけるドラマなのです。
最初の場面、1節から7節は、イエスさまと、弟子たち、そして、生まれつきの盲人が登場する場面です。
(1)さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。(2)弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(3)イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(4)わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。(5)わたしは、世にいる間、世の光である。」(6)こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。(7)そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
イエスさまは、ある町で、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を、見かけられました。この人は、道ばたに座って、物乞いをしていました。
生まれつき盲人である、その人を見て、弟子の一人が、イエスさまに尋ねました。
「先生、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と。
その当時の、ユダヤ人の間では、昔から、病気や、さまざまな不幸な出来事の原因は、その人が、罪を犯したからだ、罪の結果だと信じられていました。仏教用語で「因果応報」といいます。日本流に言えば「親の因果が子に報い」というのでしょうか。モーセの十戒の第2戒では、偶像を造って拝むことを禁じ、同時に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト記20:5)と、規定しています。当時のユダヤ人は、誰でも知っている掟です。
そこで、その弟子は、そのような質問をしたのでしょう。
イエスさまは、お答えになりました。
「本人が、罪を犯したからでも、両親が、罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである。」
ここに登場する生まれつき盲人のこの人は、ある意味では、私たち、すべての人を代表しているというか、私たちを、象徴している人物であるということができます。それは、生まれつき目が見えないこの人は、生まれてこのかた何も見えません。それは、私たちの心の中の状態と同じです。私たちも、生まれたばかりの時は、神さまのことについて、何も知りませんでした。何も分からず生まれてきました。神さまを信じるとか、イエスさまを信じるとか、そのような、信仰を持って生まれてきた人は、誰もいません。「生まれつきの盲人である」ということは、実は、まだ、神さまのことを全く知らない、私たち自身と同じ状態だったと言えるのではないでしょうか。
これに対して、イエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、言われました。神の業の「業(ergon)」とは、行い、働き、務めという意味ですが、イエスさまが、キリストであることを証しすること、イエスさまが、父である神さまから与えられた働きを意味します。そして、その後に、起こる奇跡によって示されます。さらに、イエスさまは、「わたしは、世にいる間、世の光である」(5節)と、言われました。
そして、イエスさまは、地面に唾をし、唾で土をこねて、その、目が見えない人の目に、お塗りになりました(6節)。そして、「シロアム、(『遣わされた者』という意味)の池に行って洗いなさい」と言われました(7節)。この池は、実在する人工の池で、シホンの泉という泉から、長いトンネルを通って、流れ込んだ水が、貯まって、池になっています。聖書では、わざわざ、この池に「遣わされた者」という注釈がつけられています。彼は、その池に行って、そこで、目を洗いました。すると、イエスさまが言われたように、目が見えるようになりました。奇跡が起こりました。癒やされたこの人は、躍り上がって、喜び、家に帰って行きました。
(8)近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。(9)「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(10)そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」 と言うと、(11)彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」(12)人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
2番目の場面は(8節〜12節)、近所の人たちと、その盲人だった人が、登場する場面です。その人は、小さい時から目が見えず、道ばたに座って物乞いをしていましたから、近所の人たちは、盲人だった、この人のことをよく知っています。
そこで、人々は、「この男は、道ばたに座って、物乞いをしていた人ではないか」と言いました。「そうだ、その人だ」と言う人もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う人もいました。本人は、それを聞いて、「わたしがそうなのです」と言いました。そこで人々が、「では、お前の目は、どのようにして開いたのか」と尋ねました。その盲人だった人は、「イエスという方が、土をこねて、わたしの目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われたのです。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、盲人だったその人は、「知りません」と言いました。
ここで、今日の福音書では、次の第3の場面(13節〜17節)、第4の場面(18節〜23節)、第5の場面(24節〜27節)が、省略されています。
この省略された第3の場面では、盲人だった人と、ファリサイ派の人たちとの対話の場面があり、また、第4の場面では、ファリサイ派の人々が、盲人だったこの人の両親に、ほんとうに、目が見えないのは、生まれつきだったのかと問いただす場面があります。そして、第5の場面では、ファリサイ派の人たちが、再び、登場して、盲人だった人を、問い詰める場面となります。
(28)そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。(29)我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(30)彼は答えて言った。「あの方がどこから来られた か、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。(31)神は罪人の言うことはお聞きにならない、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞 きになります。(32)生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。(33)あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(34)彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
第5の場面の中程に飛びますが、28節〜34節では、再びファリサイ派の人々と、盲人だった人が、登場します。それは、ユダヤ教の会堂の中での出来事です。そこに、ユダヤ人たち、多くはファリサイ派の人々だったのですが、彼らは、盲人であった人を、会堂に、もう一度呼び出して、言いました。「神の前で正直に答えなさい。われわれは、あのイエスという者が、罪ある人間だということはわかっているのだ。現に、安息日に、律法に従わずに人の病いを癒したりしているのだから。」と言いました。すると、生まれつき盲人だった人は、答えました。
「あの方が、罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ、一つ、分かっていることは、生まれつき目が見えなかった、この、わたしが、今は、見えるようになったということです。」
すると、ファリサイ派の人々は言いました。
「あの者は、お前に、どんなことをしたのか。お前の目を、どうやって開けたのか。」と、また、同じことを尋ねました。
生まれつき盲人だった人は、言いました。
「もう(何回も)お話ししたのに、あなたがたは、聞いてくれませんでした。なぜ、また、聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
これを聞いて、ファリサイ派の人々は、(怒りだし)、この男を、ののしって、たいへんな剣幕で言いました。
「お前は、あの者の弟子だが(あの者の側の者、あの者の味方だが)、われわれは、モーセの弟子だ。われわれは、神が、モーセに語られたことを知っている。(神がモーセを通して与えられた律法を知っているし、それを忠実に守っている。)
しかし、あのイエスという者が、どこの出身で、どこから来たのかは、分からないのだ。」
すると、盲人だった人は、言いました。
「あの方は、わたしの目を開けてくださったのです。だのに、あの方が、どこから来られたかわからないとは、実に不思議なことです。神さまは、罪人の言うことは、お聞きにならないと、私たちは教えられています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えない者の目を開かれた人、そんな不思議を行った人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が、神のもとから来られたのでなければ(神によって遣わされた方でなければ)、生まれつき目が見えなかった、わたしの目を、見えるようにするなど、ということは、お出来にならなかったはずです。」
ファリサイ派の人たちは、「お前は、全く、罪の中に生まれた、明らかに罪人なのに、われわれに向かって教えようというのか」と言い返し、盲人であったこの人を、会堂から外へ、追い出しました。彼は、ユダヤ教の会堂から追放されてしまいました。
(35)イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。(36)彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(37)イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(38)彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。
第6の場面(35節〜39節)は、イエスさまと、目が見えるようにして頂いた盲人が、登場します。
イエスさまは、盲人だった人が、会堂の外に追い出されたことを、お聞きになりました。そして、その盲人だった人に出会うと、イエスさまは、「あなたは、あなたの目を癒した人を信じるか」と、言われました。盲人だった人は言いました。
「主よ、その方は、どんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスさまは言われました。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
盲人だったこの人は、「主よ、信じます」と言って、イエスさまの前に、ひざまずきました。彼は、この時、この瞬間、イエスさまを礼拝する者となりました。
今日の福音書の、「生まれつきの盲人をいやされた」物語は、ここで終わっているのですが、聖書では、最後に、もう一幕あります。9章40節、41節です。
イエスさまは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は、見えるようになり、見える者は、見えないようになる」と、言われました。
イエスさまと、一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、イエスさまのこの言葉を聞いて、「それでは、我々も見えないということか」と言いました。
さらに、イエスは言われました。「見えなかったのであれば、(あなたがたの)罪は、なかったであろう。しかし、今、『見える』と、あなたたちは、言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
イエスさまと、ファリサイ派の人々が向かい合っています。
イエスさまは言われました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と。ファリサイ派の人々は、この言葉を聞いて、「われわれは、ちゃんと見えている。それとも、われわれも、見えないとでも言うのか」と言いました。
イエスさまは、言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』と、あなたたちは、言い張っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
今日の福音書の最初に、弟子の一人が、イエスさまに、
「先生、この人が、生まれつき目が、見えないのは、だれが、罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。そのことがきっかけになって、「罪とは何か」というテーマで、このように、長い場面が展開されています。
イエスさまは、お答えになりました。
「本人が、罪を犯したからでも、両親が、罪を犯したからでもない。神のみ業(働き)が、この人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方のみ業(働き、務め)を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」という言葉の意味が、それ以降の、盲人だった人への質問と、答えから説明されていきます。
「生まれつき盲人だった人」は、最初、イエスさまのことを、「その方が誰か知らない」、「分からない」と言い、その次に、「預言者です」と言い、さらに「分からないはずがありません」と言い、そして「信じたいのです」と言い、最後には「信じます」と告白して、イエスさまの前に、ひざまずきました。
肉眼の目で見えるだけではなく、だんだんと焦点が合ってくる、心の目が開かれていく、そのようすがわかります。
一方、ファリサイ派の人たちは、イエスさまを、肉眼の目だけでしか、見ようとしません。自分たちの思い込みだけで判断しようとします。「安息日を守るか、守らないか」、言いかえれば、律法という「物差し」でしか、神さまのみ心を知ることが出来ません。「あの者は、どこから来たのか」と言って、血統や出身地で、外見で、人を見ようとします。
「罪人であるお前が、われわれを教えようとするのか」と、面子と体裁にこだわります。そして、最後には、自分たちの意見に合わない者を、力で、追放してしまいます。
私たちも、自分の目では、神さまを見ることはできません。イエスさまの姿も、顔も、肉眼で見ることはできません。お声を、直接、聞くこともできません。それは目に見えないからだ、手で触れられないからだと、思っています。
「見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなる」ということは、肉体の目でしか、見ようとしない者は、見えない者となり、心の目で見ようとする者は、見える者とされるということです。
イエスさまは、同じヨハネの福音書の3章17節で、このように言っておられます。「神が、御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われました。
イエスさま、ご自身が、この世に来られたのは、裁くためではない。しかし、イエスさまが、この世に来られたことによって、イエスさまに、出会った人々が、おのずと裁かれてしまうのです。右、左に選り分けられて、イエスさまが来られたこと自体が「裁き」となってしまうのです。
イエスさまの前に立った時、私は、今、どの位置に、どの立場に立っているのか、この方を見えているのか、見えていないのか、この方を、ほんとうに信じているのか、信じていないのかを、より分けられることになります。
ほんとうのイエスさまは、肉眼の目では見えません。
むしろ、イエスさまが、誰だかわからないと、へりくだって、素直に、認める者には、罪がありません。イエスさまの方から現れて下さって、分かるようにしてくださいます。
しかし、見えないのに「見える」と言い張る、「見えている」と思い込んで、人を裁く、自分の理解こそが、正しいと、言い張るところに、かえって、ほんとうのイエスさまが見えなくなってしまうことになります。
そこに「罪」があると言われるのでは、ないでしょうか。
「罪とは、何ですか」、「罪人とは、誰のことですか」。
私たちが、今日の福音書の中の物語に、登場するとすれば、ドラマの中の、どの場面の、どの登場人物になるでしょうか。 盲人だった人ですか、近所の人たちの中の一人ですか、両親ですか、ファリサイ派の一人でしょうか。
そのことを考えながら、ご自分で、ヨハネによる福音書の9章全体を、もう一度、読んでみてください。
私たちが、心から、真剣に、真心をもって、「主よ、信じます」と言って、神さまの前に、ひざまづくとき、その姿にこそ、神さまが、神さまの方から、私たちに近づいてくださり、神の業(わざ)が現される瞬間を体験することになるのではないでしょうか。
〔2020年3月22日 大斎節第4主日 (A年) 於 ・ 聖 光 教 会〕