イエスは涙を流された。

2020年03月29日
ヨハネによる福音書11章1節〜44節 〔1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間、同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちが、ついこの間も、あなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で、言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。〕 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた。18ベタニアは、エルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。  今、世界中の人々に脅威を与えている新型コロナウイルスの感染により、被害を受け、苦しんでいる人々、亡くなった人々のため、また、医療に携わっている方々のため、また、一日も早く、終息の時がきますよう、お祈りいたします。  さて、今日の福音書は、ヨハネによる福音書11章1節から44節まで、(1節から16節までは、朗読が省略されていますが、)非常に長い、一つの奇跡物語です。  ひと口に言いますと、ベタニアという村に住んでいたマリアとマルタの兄弟ラザロが、病気で死に、死後4日も経って、イエスさまが、このラザロをよみがえらせた、生き返らせたという、死者を復活させた物語です。  今、この福音書を読んで、私たちは、何を、どのように、受け取るでしょうか。イエスさまは、この奇跡物語から、私たちに、何を受け取って欲しいと、求めておられるのでしょうか。  いくつものテーマが含まれた、この奇跡物語から、とくに、今日は、この11章35節に記された「イエスは涙を流された」という言葉と、40節の「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と、イエスさまが言われた、この2つの言葉にこだわって、ご一緒に考えてみたいと思います。   エルサレムの町のすぐ近くあるベタニアという村に、マルタと、マリアという姉妹、そして、その兄弟のラザロが、住んでいました。11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹と、ラザロを愛しておられた」と、わざわざ書いていますから、イエスさまは、この兄弟姉妹を愛し、特別に親しくしておられたことがわかります。(ルカ10:38〜42、ルカ7:36〜38)  ある時、このマルタとマリアの兄弟ラザロが、病気になりました。マルタとマリアは、人を使いにやって、イエスさまに、弟のラザロが、病気であることを知らせました。  しかし、これを聞いたイエスさまは、すぐには、ベタニアに行こうとはされず、さらに2日たってから、腰を上げられ、イエスさまが、ベタニアに到着した時には、ラザロが死んで、葬られ、すでに4日が経っていました。(11:17)  マルタは、イエスさまが来てくださったと聞いて、迎えに出ました。そして、「主よ、もし、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は、死ななかったでしょうに。しかし、あなたが、神さまにお願いになることは、何でも神さまは、かなえてくださると、わたしは、今でもわかっています」と言いました。すると、イエスさまは、「あなたの兄弟は、復活する」と言われました。それを聞いて、マルタは、「終わりの日、すなわち、終末の時には、復活すると預言されていることは、聞いて知っています」と言いました。  すると、さらに、イエスさまは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、言われました。  マルタは、「はい、主よ、あなたが、世に来られるはずの神の子、メシア(救い主)であると、わたしは信じています」と答えました。そして、マルタは、こう言ってから、家に帰って、妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちしました。(11:28)  マリアは、それを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスさまのもとに走りました。その時、イエスさまは、まだ村には入らず、マルタが出迎えた所におられました。マリアは、イエスさまのおられる所に来て、イエスさまを見るなり、足もとにひれ伏して、言いました。「主よ、もし、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は、死ななかったでしょうに」と、マルタと同じことを言いました。  そこで、イエスさまは、マリアが、泣き、そこに、一緒について来た近所の人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われました。「どこに葬ったのか」と。(11:34)近所の人たちは、「主よ、来て、御覧ください」と言いました。そこで、イエスさまは、涙を流されました。(11:35) それを見た近所の人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。  しかし、その中には、「盲人の目を開けた(そんな奇跡を行った)この人も、ラザロが、死なないようにはできなかったのか」と、言う人もいました。イエスさまは、再び、心に憤りを覚えながら、墓に入られました。  当時のユダヤ人のお墓は、岩山に掘った洞穴で、中に入ると、トンネルの壁をくり抜いて、出窓のようになった所に、白い布で包んだ死者(ミイラ)を安置していました。そのトンネルの入口には、大きな石で蓋がしてあります。  イエスが、お墓(洞穴)の入口で、「その石を取りのけなさい」と言われました。すると、ラザロの姉妹マルタが、「主よ、ラザロは、死んでから、もう、4日も経っていますから、もう臭います」と言いました(11:39)。  すると、イエスさまは、「もし、(あなたが、ほんとうに)信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました(11:40)。人々が石を取りのけると、イエスさまは、天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と言われました。(41,42)  こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と、大声で叫ばれると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔も、白い布で包まれていました。  イエスは、人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。(11:41〜44)  このようにして、死んでいた、死んで4日も経っていた人が、よみがえったのです。死者がよみがえったという、奇跡が起こったのです。  イエスさまの時代、ユダヤ人の間では、「人は、死んでよみがえるか」という問題は、いつも議論され続けられていました。ファリサイ派、律法学者たちは、よみがえりを信じていました(ダニエル12:1〜2)が、しかし、サドカイ派の人々は、よみがえりなどないと主張し、論争は絶えませんでした。(使徒言行録23:7〜8) 復活というものがあるのか、ないのかと、激しく論争し合う宗教家たちや、民衆の中で、イエスさまは、人々の前で、明らかに死んだ人、ラザロをよみがえらせて見せたのです。ただ、論争するだけではなく、具体的な、現実の出来事として、人々の目の前で、死んだ人を、よみがえらせたのです。しかし、ここで、疑問が起こります。  イエスさまは、このように、ラザロをよみがえらせることが出来たのに、その直前に、なぜ、「マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、涙を流された」のでしょうか。(11:33〜35)  「涙を流された」ということは、「イエスさまが泣いた」ということです。  私は、ここで、パウロが、ローマの教会の信徒へ書いた手紙の一節を思い出しましす。パウロは、ローマ書の12章に、「愛には、偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(12:9〜10)と書き出し、そして、15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書いています。  イエスさまご自身、弟子たちに向かって、「あなたがたに、新しい掟を与える」と言って、最も大切な掟として、「互いに愛し合いなさい。わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子で あることを、皆が知るようになる。」と教えられました。(ヨハネ福音書13:34〜35) さらに、ヨハネ福音書15章12節では、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:12〜13)と、命じられました。  後の時代に、このイエスさまの教えを受け取り、イエスさまの生きざまと教えを、宣べるために、命を捨てた弟子の一人が、パウロという人でした。そのパウロが、ローマの信徒への手紙12章15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と、手紙に書いたのです。  イエスさまは、弟子たちや人々に命じ、教えるだけではなく、その生涯を通して、人々を愛し、ご自分の命を捨てる愛し方をお示しになりました。  マルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹の話に戻りますが、イエスさまが、「涙を流された」というのは、後になって、パウロが言った、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を、イエスさまが、実際の生活の中で、愛する人として、自然な姿の中で、ご自身、身をもって示された行為だったのではないでしょうか。  私たちの生活の中の人間関係でも、人を愛するということは、どんなに良い言葉をたくさん並べ立てるよりも、まず、相手の気持ちを汲むこと、目の前のその人の悲しみや、苦しみや、怒りや、喜びなどを、まず、しっかりと受け留めることだと言われます。  イエスさまは、目の前で、泣き悲しんでいるマルタとマリアを見て、何よりも先ず、彼女たちの悲しむ心を、しっかりと受け止め、いっしょに悲しみ、いっしょに涙を流されました。  イエスさまが、涙を流しておられる様子を見たユダヤ人たち、近所の人々は、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。(11:36)  イエスさまは、単に、同情や、感傷的な気持ちだけではなく、先ず、ラザロを愛し、マルタとマリアの悲しみを受けとめ、「泣く者と共に泣かれた」、涙を流されたのではないでしょうか。泣く者と共に泣いてくださるイエスさまであったのです。  イエスさまを取り巻くユダヤ人たちの中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいたと、記されています。(11:27)  その直後には、イエスさまは、お墓に入り、お墓の中に安置されていたラザロをよみがえらせました。奇跡を行っておられます。私たちも、神さまによって、イエスさまによって、「愛されている」ということを信じています。私たちは、神の恵みによって生かされ、私たちのために、死んでくださったイエスさまの愛によって、救われ、感謝の日々を送っています。  そして、マルタやマリアの悲しみを、受けとって、共に涙を流したくださったように、私たちが、悲しんでいる時にも、苦しんでいる時にも、共に涙を流し、共に苦しんでくださっていると信じます。「イエスは、涙を流された」、「イエスは、私たちのために、涙を流してくださる」という、今日の聖書の言葉、聖句を、しっかりと、受け取りたいと思います。  もう一つ、今日の福音書から、受け取って頂きたい、ご一緒に考えて頂きたい、大切なことがあります。  それは、イエスさまが、すでに死んで、葬られていたラザロを、よみがえらせたという奇跡が起こったのですが、そのよみがえらせて頂いた、ラザロは、その後、どのような生き方をしたのでしょうか。それは、どこにも記されていませんし、伝えられてもいません。ただ、もう一つ、わかることは、このようにして、よみがえらせて頂いた、ラザロも、いつか、どこかで、もう一度、死んでいるということです。年をとって寿命がつきて、死んだのか、まだ若くして、病気で死んだのか、わかりませんが、しかし、もう一度、死んでいることは確かだと思います。  そうすると、イエスさまが、ラザロをよみがえらせたというこの奇跡は、ラザロの寿命を、少しだけ延ばしてやったというだけだったということになります。なんのためにラザロをよみがえらせたのでしょうか。イエスさまが、ラザロをよみがえらせた目的は、または、その意味は、いったい、何だったのだろうかということになります。私たちが、この奇跡物語から受け取らなければならない意味は、この奇跡物語が言おうとする、ほんとうの意味は、何なのでしょうか。  もう一度、この物語を振り返ってみますと、11章20節以下に、奇跡が起こる初めに、イエスさまと、マルタの会話がありました。もう一度読んでみますと、「マルタは、イエスさまが来られたと聞いて、迎えに行った。しかし、妹のマリアは、家の中に座っていた。マルタは、イエスさまに言いました。『主よ、もし、あなたが、ここに、いてくださいましたら、わたしの兄弟(ラザロ)は、死ななかったでしょうに。しかし、あなたが、神さまにお願いになることは、何でも、神さまは、かなえてくださると、わたしは、今でも承知しています』と言いました。すると、イエスさまは、『あなたの兄弟は復活する』と言われました。それを聞いて、マルタは、『(世の)終わりの日に、すべての人が復活する時に復活するということは、教えられて信じています』と言いました。イエスさまは、言われました。『わたしは、復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、だれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』と。  それを聞いて、マルタは、「はい、主よ、あなたが、世に来られるはずの神の子、メシア、救い主であると、わたしは信じております」と答えました。  イエスさまご自身が、よみがえりであり、命である。そして、わたしを、イエスさまを信じる者は、(肉体的に、この世的に)死んでも、生きる。だから、わたしを(イエスさまを)信じる者は、決して、死ぬことはないのだ」(11:20〜27)と言われたのです。 そして、そのことを証明するために、死んで、4日も経っているラザロを、よみがえらせて見せたのです。  さらに、11章40節以下に、イエスさまは、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。人々が、お墓の入口の石を取りのけると、イエスさまは、天を仰いで、祈りをささげられました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いを、いつも聞いてくださることを、わたしは、知っています。しかし、わたしが、わざわざ、このように言うのは、周りにいる人々のためです。あなたが、わたしを、お遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と、こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と、大声で、叫ばれました。」(11:40〜43)  イエスさまは言われました。「あなたがたが、もし、(わたしを)信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。「神の栄光」とは、「神の臨在」、神さまが、そこに居られること、神さまの力、神さまの働き、神さまのなさること、み業をあらわします。  マルタとマリアの兄弟、ラザロが、死んでいたラザロが、生きかえったという奇跡は、そこに、神さまのみ業が現れた、神さまのみ力が示されたことを意味します。そのために、ラザロは、神さまが、イエスさまによって、人々に示された、神さまの力を現されるための、道具となり、器となったのです。  イエスさまは、天を仰いで、神さまに祈って、言われました。「わたしが、わざわざ、このように言うのは、周りにいる人々のためです。あなたが、わたしを、お遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と、こう言われて、「ラザロ、出て来なさい」と、大声で、叫ばれました。 しかし、ヨハネの福音書によると、このラザロのよみがえりの奇跡がきっかけになって、イエスさまは、逮捕され、裁判を受け、苦難の道を歩み、十字架へと、続くことになりました。  私たちは、あと11日で、「受苦日」を迎えます。ラザロのよみがえりの物語を通して、心の準備をし、そして、2週間後の「復活日」には、主のご復活を心から感謝し、よろこびをもって、この日を迎えましょう。 〔2020年3月29日 大斎節第5主日(A年) 於 ・ 京都聖マリア教会〕