「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」
2020年04月05日
マタイによる福音書27章1節〜54節
(1)夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。(2)そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
(3)そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って、後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、(4)「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。(5)そこで、ユダは、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(6)祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、(7)相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。(8)このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。(9)こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨30枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。(10)主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
(11)さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。(12)祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。(13)するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。(14)それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
(15)ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。(16)そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。(17)ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」(18)人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。(19)一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(20)しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと、群衆を説得した。
(21)そこで、総督が、「2人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。(22)ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。(23)ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆は、ますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。(24)ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」(25)民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」(26)そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
(27)それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。(28)そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
(29)茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。(30)また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。(31)このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
(32)兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。(33)そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、(34)苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。(35)彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、(36)そこに座って見張りをしていた。(37)イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。(38)折から、イエスと一緒に2人の強盗が、1人は右に、もう一人は左に、十字架につけられていた。(39)そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、(40)言った。「神殿を打ち倒し、3日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(41)同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。(42)「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。(43)神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(44)一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
(45)さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。(46)3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(47)そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人は、エリヤを呼んでいる」と言う者もいた。(48)そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。(49)ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。(50)しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。(51)そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、(52)墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。(53)そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(54)百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
今、世界中の人々に脅威を与え続けている新型コロナウイルスの感染により、さまざまな被害を受け、苦しんでいる人々のため、亡くなった人々のため、また、医療に携わっている方々のため、そして、一日も早く、終息の時がきますよう、お祈りしたいと思います。
イエスさまが、このように祈りなさいと、教えてくださったお祈り、「主の祈り」を、心を込めて祈りましょう。
「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
み心が天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン」
さて、今日は、「復活前主日」です。次の日曜日には復活日(イースター)を迎えます。
この一週間は、「聖週」と呼ばれ、「御受難週」とも言います。イエスさまは、ユダヤ教の本山ともいうべき、神殿のあるエルサレムに入り、そこで、ファリサイ派や律法学者たちと論争を重ね、弟子たちと最後の晩餐をし、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判にかけられ、鞭打たれ、侮辱を受け、重い十字架を担がされて、ゴルゴタの丘に連れて行かれ、十字架につけられ、そして、苦しみの中に息を引き取られました。私たちは、イエスさまの受難と死を記念する、最も大切な一週間であることを覚えて、過ごしたいと思います。
今日の福音書は、長い聖書の個所が読まれましたが、このイエスさまの御受難の物語は、何回読んでも、心が引き締まる思いがしますし、心も肉体も引き裂かれるような苦痛、苦悩にもだえるイエスさまを思うとき、涙が出そうになります。
ご存知のように、イエスさまの「誕生物語」は、4つの福音書のうち、マタイとルカによる福音書にしか記されていません。しかし、イエスさまの「受難物語」については、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書のすべてに、それぞれ、多くのページをつかって、記されています。
それは、初代教会において、受難、十字架、復活の出来事が、いかに重要なものであったかということを示しています。
「十字架上の七語」という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。イエスさまは、ちょうど、正午、昼の12時頃に、十字架につけられ、午後3頃に息を引き取られたと、記されています(マタイ27:45、46)。手と足に釘打たれ、そこに体重のすべてがかかり、苦痛のために、苦しみ、悶えておられる、その3時間の間に、イエスさまが、十字架の上から発せられた、7つの言葉を、4つの福音書から集めて「十字架上の七語」と言います。そのひと言、ひと言に、イエスさまの思いと、深い意味を、感じるのですが、今日は、とくに、今、読みました福音書の中から、十字架上の4番目の言葉について、深く心を留めたいと思います。
マタイによる福音書の27章45節から47節を、もう一度読みます。
「さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは、大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』これは、『わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人は、エリヤを呼んでいる』と言う者もいた。」
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉は、旧約聖書の詩編22章2節にある言葉です。
「わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜ、わたしをお見捨てになるのか。
なぜ、わたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とは、当時、日常的に使われていたアラム語で、その意味は、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」であると記されています。
イエスさまは、たぶん、日頃から、詩編22編2節のこの言葉を、よく口ずさんでおられたのではないか、苦しみもだえる中で、この言葉を叫ばれたのではないかと、考えられています。イエスさまは、ほんとうに、父である神さまから、見放された、見捨てられた、と感じ、絶望的とも、孤独な思いに陥ったとも考えられるような言葉を発したのでしょうか。
イエスさまは、肉体的な苦痛の極限、限界にありながら、私たちと同じ一人の人間として、私たちすべての人間が持つ弱さや、孤独感や絶望感の極限を、体験しておられるのでしょうか。今、十字架上で、すべての人間を代表する者として、これを、引き受けておられるのでしょうか。
そういう意味で、その瞬間、イエスさまは、私たちと同じ人間、「まことの人」として、十字架の上で、苦しみ、悶えてくださっています。
かつて、イエスさまが、ローマの兵隊や、ユダヤ人たちに、捕らえられる前に、弟子たちと最後の晩餐を共にされた後、ゲッセマネの園で、祈られました。
弟子たちは、その横で、眠ってしまっていました。
「(イエスは、) 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから(わたしの口から)過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』それから、更に、祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎり、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように』」と、祈られました。
苦い、苦い、毒杯が、今、目の前に、突きつけられようとしています。
「父よ、できることなら、この杯を、わたしから過ぎ去らせてください(取り除けてください)。しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたの御心が行われますように」と祈り、その苦い杯を呷る覚悟を示しておられます。(マタイ26:36〜42)
そして、今、十字架につけられ、その苦い杯を飲み干しておられます。
私たちにとって、正しい信仰とは、わたしたちの主イエス・キリストは、神のみ子であり、神であると信じ、告白することです。そして、キリストは、完全な神であり、同時に、完全な人であり、理性ある魂と人間の肉体をもって存在された方であると信じます。(アタナシオ信経の30〜32番(祈祷書929ページ)) 私たちは、そのように信じ、それが、私たちの信仰の中心です。
その完全な神であり、完全な人であられるイエスさまが、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と、叫んでおられるのです。
私たちも、絶望した時、孤独に陥った時には、一生懸命、祈ります。その時に祈る、私たちの祈りと、イエスさまの祈りには、違いがあるのでしょうか。
実は、大きな違いがあります。それは、イエスさまは、神さまに向かって、「わが神、わが神」と呼びかけられたということです。英語で言うと、「マイ ゴッド!」です。
たとえば、一般的に「父親とは」とか、「父親というものは」と言う言葉と、「私の父は」とか「うちの親父は」という言葉では、意味合いが違うようなものです。
大きな愛と信頼によって結ばれた関係にある「わが神」なのです。私たちと同じ肉体を持ち、痛みと苦しさで、身もだえしながら、愛と信頼によって結ばれた親子の関係の中で、イエスさまは、今、苦い杯を呷ろうとしておられます。いや、呷っておられるのです。しかし、「わたしの思いではなく、あなたの御心が行われますように」と、願っておられます。
イエスさまは、「わが神、わが神」と言われました。今、まさに生命が終わろうとしている、肉体的な苦痛と、孤独と絶望の中にあっても、神さまは、なお、イエスさまの父なのです。ここに、イエスさまと、ほかの人間との違いがあります。「まことの人間性」を、私たちは見ることができます。
私たちも、1日でも、1時間でも、いや、一瞬といえども、神さまから離れて生活しようとする限り、私たちは、「まことの人間」、「完全な人」とは、言えません。
イエスさまは、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と、祈られました。
この時、この瞬間、イエスさまは、完全な神であるとともに、完全な人として、私たちの罪のすべてを背負い、わたしたちに代わって、犠(いけ)牲(にえ)として、ささげられようとしています。私たち人間を代表する者となるためには、罪を負わなければなりません。そのためには、神に背く者、神から見捨てられた者であることを、経験しなければなりません。
今、苦い杯を呷ることが、「しかし、わたしの願い通りではなく、み心にままに」と、祈られたその祈りが、実行されているのです。
イエスさまが、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから、洗礼をお受けになった時、「イエスさまに向かって、天が開き、神の霊が鳩のように、イエスさまの上に降って来るのを御覧になりました。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえました。」(マタイ3:16、17)
また、イエスさまが、ペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子たちを連れて、山に登られた時、イエスさまの姿が真っ白に輝き、光り輝く雲が彼らを覆いました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。
このように、イエスさまの上に、天から声が聞こえ、「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という、神さまからの応答がありました。
しかし、今、イエスさまが、苦しみ悶える中から、天を見上げ、『わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか』と、呼びかけておられるのですが、神さまからは、何の応答もありません。神さまは、沈黙を守っておられます。ゲッセマネの園で、イエスさまが祈られた、その祈り、
「父よ、わたしが飲まないかぎり、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」が、ここで、実行されたのです。
イエスさまは、「世の罪を除く神の子羊」(ヨハネ1:29、36)として、すべての人々の罪を除くための犠牲の子羊となられたのです。この時、父である神さまのみ心が行われました。
神さまには、十字架の上で叫んでおられる、イエスさまの、愛する御子の声が聞こえておらるのではないでしょうか。そして、この神さまの沈黙に、神さま御自身が持って居られる「痛み」を、感じずにはいられません。
十字架の下で、その光景を見ていた、ローマ軍の隊長や、一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、その時、起こった地震や、いろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は、神の子だった」と、言いました。(27:54)
私たちは、この時期、毎年、ゴルゴタの死刑場の光景、そこに立てられた十字架、そして、イエスさまの苦痛と死を想い、胸を打たれます。イエスさまは、まことの神であり、まことの人、人間であられたことを、もう一度、しっかりと胸に刻み、私たちも、「まことの人」であり続けたいと思います。どんな時にも、私たちの心が、いつも、神さまと共に在ること、それが、「まことの人」と言われる条件では、ないでしょうか。
今、新型コロナウイルスの世界的大流行は、世界中を震え上がらせています。世界中の科学者、研究者は、この病原菌を退治するために、昼夜を問わず努力しておられるでしょうし、そのほかのあらゆる分野で、一日も早く、この流行が終息するために、努力して下さっていることに感謝します。
私たちは、一人の人間として、そして、同時に、キリスト教徒として、何を大切にしなければならないかを、考えなければならないと思います。この何ヶ月か、コロナウイルスの流行を通して、「私たち人間の弱さと、見せかけの過剰な確信のもろさ」を感じます。
今こそ、神さまとの関係、言いかえれば、私たちの信仰生活のあり方、私たちの生き方について、振り返り、考える時ではないでしょうか。きちんと、神さまに向かい会う機会にしたいと思います。
〔2020年4月5日 復活前主日(A年) 京都聖ステパノ教会〕