「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」

2020年05月10日
ヨハネによる福音書14章1節〜14節 ◆イエスは父に至る道 (1)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(2)わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。(3)行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(4)わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(5)トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(6)イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(7)あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(8)フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、(9)イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。(10)わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。(11)わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。(12)はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(13)わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。(14)わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」  今、ヨハネによる福音書14章1節以下を読みましたが、その直前の個所、ヨハネによる福音書13章36節から38節には、イエスさまの12人の弟子の一人ペトロが、イエスさまに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と、質問したところから始まっています。  この質問に対して、イエスさまは、「わたしの行く所に、あなたは、今、ついて来ることはできないが、後で、ついて来ることになる」とお答えになりました。すると、ペトロは、「主よ、なぜ、今、ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。  すると、イエスさまは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、3度、わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。後になって、ペトロが、「あんな人は知らない」と言って、イエスさまを裏切ることになることを予告しておられます。(ヨハネ18:26、27)  そのような予告の延長線上で、今、読みました今日の福音書の個所が語られています。  「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」  イエスさまが、「どこかへ行く」と言われて、そこで、弟子たちが考えている「どこか」と、イエスさまが言っておられる「どこか」とは、すれ違っていることがわかります。  弟子たちは、エルサレムとか、ガリラヤ地方とか、具体的な地域や場所を頭に描きながら、「先生、どこへ行かれるのですか」「先生のいらっしゃる所なら、どんなに苦難が待ち受けていようとも、どこへでもついて行きます」と、ペトロは、格好いいことを言いました。  ところが、イエスさまが語っておられる「どこか」とは、「父の家、神さまの家に行く」と言っておられるのです。  そこへ行くためには、イエスさま自身の上に、さらに、弟子たちの上にも、想像もつかないような大変なことが起こるということを言っておられます。もっと具体的にいうと、それは、イエスさまは、さまざまな苦難と十字架の死を体験し、その道を通って、神さまの所へ行かれるのだということを、暗に指し示しておられます。  しかし、弟子たちには、まだ、その意味がわかりません。  イエスさまは、「わたしの父である神さまの家には、住む所がたくさんある。わたしは、あなたがたのために、その場所を用意しに行く。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを、わたしのもとに迎える。こうして、わたしの居る所に、あなたがたも居ることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知ることになる」と、言っておられるのです。  私は、今、京都刑務所で、教誨師という仕事をさせて頂いています。もう、35年以上になりますが、仏教や神道、天理教や大本教など、いろいろな宗教、宗派の先生がたと交替で、刑務所へ行き、個人教誨、グループ教誨、出所前の指導など、その都度、依頼を受けて、話をしに行きます。私は、もっぱら、受刑者の「仮釈放前の指導」を担当しています。  刑務所を管轄する法務省から出している資料によりますと、出所者の再犯防止ということが、大きなテーマになっています。刑務所から満期出所した人たちの半分以上の人たちが、再び罪を犯して、刑務所に帰って来るという現状です。  出所した後、帰って行く所がない、仕事がないという状態です。そのような人たちには、一時的な宿泊場所や食事を提供してくれる更生保護施設、また「自立準備ホーム」などがあって、そこに身を寄せるのですが、長くは居られません。  その結果、5年以内に再び罪を犯し、過半数の人たちが刑務所に戻って来るという状況です。  法務省では、そのような再犯防止ために、いろいろな対策を進めていますが、同時に、社会全体の人々に、理解を深めてもらえるよう広く呼びかけています。  その呼びかけの文書には、このように書かれています。  「誰もが『居場所』と『出番』のある社会を実現し,刑務所出所者等の社会復帰を促進し、孤立化や社会不適応に起因する再犯を防止することは、安全・安心な社会の実現に繋がります。」  ここに、「居場所」と「出番」という言葉が使われていますが、老人介護の問題や、青少年の補導などでも、近年、この言葉が、広く使われています。  刑務所を出た人だけではなく、今、生きている私たちすべての人に、「居場所」と「出番」が保証されることの大切さが叫ばれています。  これは、単に、住む所、住宅や、自分の部屋が、あるかないかだけの問題ではなく、いろいろな場面が考えられます。  私たちは、学校や職場で、または家族の中で、また、いろいろな人間関係の中で、ほんとうに、自分の居場所は、あるのでしょうか。また、家庭や、仕事の場で、ほんとうに自分が生き生きとしていられる出番があって、それに取り組めているだろうかと、問われています。言いかえれば、私たちの毎日の生活の中で、居場所と出番が、ちゃんと、与えられているか、得ているかと、問われることは、私たちの毎日の生活の中に、「生きがい」を得ているかどうかが問われることではないでしょうか。 4年前に亡くなった方で、永 六輔さんという方がおられます。ラジオ・パーソナリティ、随筆家、放送作家、作詞家として活躍しておられた方で、覚えておられると思います。その永 六輔さんの著作の中にこのような文章があります。 「<つらい>とか、<悲しい>とか、<痛い>というのは、何とかできるんです。いちばんやっかいなのは<むなしい>ということ。」「自分が誰かの役に立っているという自信のある人は絶対に<むなしく>ならない。<むなしさ>を感じない暮らしというのが充実した暮らしだ」と、書いています。(「二度目の大往生」1995年、岩波新書 36頁)  私たちは、年を取っても、若くても、いつまでも、生き生きと、生きがいを感じて、生きたいと思っています。  もう一度、イエスさまの言葉に耳を傾けますと、イエスさまは、弟子たちに言われました。  「わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために、場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と。(14:1〜3)  父である神さまの家には、住む所がたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行く。行って場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎えると、言われるのです。  弟子たちに向かって、そして、今、私たちに向かって、あなたの「居場所」を用意して迎えて下さると、約束して下さっているのです。  ペトロを初め、弟子たちの考え方では、目に見える、現実的な、居場所と出番、安住の場所と、やりがいのある役割、仕事があれば、しあわせということになるのでしょうか。  しかし、これに対して、イエスさまが言っておられる居場所と出番は、そのような居場所や出番ではないのです。  イエスさまが、用意して下さる場所、それは、「わたしの居る所に、あなたがたも居なさい」と言われる場所なのです。  イエスさまが言われる居場所は、何畳とか何坪と広さを測れるような場所ではありません。美しい音楽が流れ、美味しいものを、いつも、いっぱい食べていられる場所でもありません。イエスさまが、弟子たちに、そして、私たちに、「あなたは、今どこにいるのですか」と問われる居場所とは、それは、「イエスさまが居られる所」、「イエスさまと共に居ること」、それが、イエスさまが言われる「居場所」です。  弟子の一人、トマスが言いました。(5節)  「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」  どうしたら、ほんとうの居場所、神さまが居られる所へ、行けるのでしょうか。どの道を通って行けばよいのですか」と、尋ねました。  イエスさまは、言われます。  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。  イエスさまは、ご自分の鼻の頭を指さして言われました。  「わたしだ、わたしだ。わたしが道だ。わたしという道を通って行かなければ、父である神さまの所へは行けない。」  自分たちの居場所について、弟子たちが持っているイメージと、イエスさまが示しておられる方向とは、すれ違っていて、話が噛み合いません。求め方の次元が違っています。話の焦点が合っていません。  弟子たちにとって、イエスさまが語っておられることに気がつき、その焦点が、ぴたっと、合い、次元が一致するためには、イエスさまは、苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえって、弟子たちの前に現れ、彼らに息を吹きかけ、聖霊を受けなければならなかったのです。  その時、はじめて、彼らは、イエスさまが言っておられたことの意味を理解し、自分たちの居場所を見つけ、命を懸ける出番を見つけることができるようになったと言うことができます。  さて、私たちは、どうでしょうか。  私たちは、イエスさまが語っておられるような、イエスさまが指さしておられるような、自分の居場所と出番を、求めているでしょうか。  神さまを、イエスさまを、信じて生きる、信仰生活を送っている中で、私たちは、どこに居場所を置いているでしょうか、どのような出番を得て力を発揮しているでしょうか。  私たちは、今、自分自身をふり返って、在るべき自分の居場所と、自分の出番を確認し、空しさから抜け出したいと思います。  今、はからずも、世界中を恐怖に陥れている「新型コロナウイルス」の感染を防ぐために、各教会で行われているはずの、主日礼拝が休止されるという、異常な事態になっています。  日頃、私たちは、信仰者としての「居場所」は、教会にある、毎主日行われている聖餐式のパンとぶどう酒、キリストの肉と血によって養われていると信じて、信仰生活を送っています。  しかし、今、その信仰生活の目に見える「居場所」が閉じられ、キリストの体と血に与る「出番」が断たれています。  しかし、今、この時にこそ、イエスさまのみ言葉が、特別の意味をもって、私たちに聞こえてきます。  今日の福音書のみ言葉を、もう一度読みます。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」  目に見える居場所と出番を見失い、寂しくなったり、空虚な気持ちになったりするのではなく、「わたしの居る所に、あなた方がたも居る」と、約束して下さるイエスさまを、見つめ、見失わないように、努めたいと思います。  「主は、みなさんとともに」  どうぞ、それぞれの場で、それぞれの所で、唱えて下さい。「また、あなたとともに」と。  「主なる神さまが、子なるイエスさまが、あなたと共に居られますように」、「また、あなたも、神さまと共に、イエスさまと共に、居られますように」と祈り、確認し合いましょう。  「あなたは、今、どこに居るのですか」、「あなたの心は、あなたの気持ちは、今、どこに在りますか」と、イエスさまは、わたしたちの「居場所」と「出番」を求めている先を、求め方を、尋ねておられます。