「わたしにつながっていなさい」

2020年05月17日
2020年5月17日 復活節第6主日        ヨハネによる福音書15章1節〜8節 (1)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。(2)わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(3)わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。(4)わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(5)わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(6)わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(7)あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(8)あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。  ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまは、ご自分は、何者であるかとか、ご自分と神さまとの関係を、弟子たちや、人々に知らせるために、「わたしは、何々である」と、いろいろなものにたとえて、話されました。  「わたしは、命のパンである」(6:34,48,51)、「わたしは、世の光である」(8:12,9:5)、「わたしは、羊の門である」(10:7)、「わたしは、良い羊飼いである」(10:11,14)、「わたしは、道であり、真理であり、命である」(14:6)など、いろいろなものにたとえて語られました。  今日の福音書、ヨハネによる福音書15章1節から8節では、「わたしは、まことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、みな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(15:1〜2)と言って、私たちとイエスさまの関係、さらに、イエスさまと神さまとの関係について、語っておられます。  私は、「ぶどうの木」について話をする時、いつも思い出すことがあります。  何十年も昔、私が、まだ大阪教区に在籍していて、司祭になったばっかりの時代の話です。  大阪の豊中市野田町、庄内という所に、「庄内伝道所」という伝道所がありました。その当時は、その庄内という町には、文化住宅といわれる住宅が、ぎっしりと立ち並んでいる地域でした。「庄内伝道所」が、「庄内キリスト教会」になって、間もない頃、教会の敷地内に、小さな保育園が設立されました。その当時、その教会の牧師だった木川田一郎司祭さん(のちに大阪教区の主教さんになられました)から、直接、聴いた話です。  ある時、その教会の婦人で信徒である方が、ぶどうの木の苗を一本買ってきて、教会の軒下に植えられたそうです。  「聖書には、ぶどうの木のお話があるので、教会に、ぶどうの木があったらいいなと思って、買ってきました」と言われたそうです。  その時、「このぶどうの木が大きくなって、実がいっぱいなったら、それで、ぶどう酒を作って、聖餐式ができたら良いですね」などと、言いながら植えて行かれました。  しかし、期待に反して、ぶどうの木を育てるのは、なかなか難しく、ひょろひょろと伸びても、実はつかない、枯れかかっているような状態が続き、何年か経ちました。  ある時、その教会の保育園に通う園児のお母さんと子どもが、教会に1羽の鶏を連れてきました。夜店で、売っていたひよこが、あんまり可愛いので、子どもにせがまれて買ったというのです。自宅のベランダで、毎日、水や餌をやって育てたのですが、すっかり大きくなってしまいました。しかし、困ったことに、その鶏が、おんどりで、朝早くから、コケコッコーと、大きな声で鳴くものですから、近所から苦情が出て、うちではもう飼えません。それで、保育園に、寄付したいと申し出られ、園児たちのために飼ってやってくださいということでした。  木川田司祭さんは、子供たちも喜ぶでしょうと言って、その鶏をもらい受け、教会の窓の下に、自分で鶏小屋を作って、この雄鶏を保育園で飼い始めました。  ところが、次の日の朝早くから、毎朝、大きな声で、その鶏が鳴くので、家族は、ゆっくり寝ていられません。さらに、その鶏は、園児を突くし、鶏小屋からは、匂いはするし、卵は産まないし、いろいろ世話はしなければならないし、木川田司祭さんのご家族は、大変なものをもらってしまったと後悔しながら、それでも、役に立たないおんどりを、仕方なく飼っていたというのです。  さらに、そのことからしばらく経って、夏になりかかった時に、異変というか、不思議なことが起こりました。  特別のことをしていないのに、先ほどのぶどうの木が、例年になく、突然、よく繁り、秋には、ぶどうの実がいっぱいなったというのです。ぶどう酒とまではいきませんでしたが、礼拝後に、集まった信徒一同で、美味しい、美味しいと言って、みんなで食べたと言います。例年に比べて、特別に手入れをしたわけでもないのに、なぜ、こんなに、実がなったのだろう、不思議ことがあるものだと話し合っていました。さらに、しばらくして、教会と、保育園で、下水工事をすることになり、業者さんに来てもらって、教会の玄関の前を掘り起こしました。その工事の最中に、その下水道屋さんが、「先生、先生」と言って呼びに来ました。「教会の玄関の前を横切って、太い、太い、何かの根が伸びています、どうしましょう」と言ってきました。  木川田司祭さんが行ってみると、確かに太い根が地面の下を這っています。しかし、その周りには、それらしい木は植わっていません。そこで、その根をたどって、さらに掘ってみますと、それが、あの何年も前に植えた、ぶどうの木の根であることがわかりました。さらに、その根の先の方をたどってみますと、それは、あの鶏小屋まで、伸びていました。 ぶどうの木と鶏小屋の間隔は、教会の建物の端から端まですから、10メートルぐらいはあります。鶏の糞が、鶏小屋の床から地面に落ちて、地面にしみ込み、誰も知らないうちに、そこから、ぶどうの木の根に肥料を提供していたということがわかりました。  何の役にも立たないと、嫌われていた雄鶏、その鶏が、人間の見えない所で役に立っていたのです。そして、その鶏小屋の下まで根を伸ばしていった、ぶどうの木の生命力の強さを知りました。昔、私は、この話を、木川田先生から聞いたとき、感動しました。そして、ぶどうの木の話が出てくるたびに、この庄内の教会で起こった出来事の話を思い出します。  みなさんも、どこかで「ぶどうの木」をご覧になったことがあると思います。ぶどう狩りに行ったとか、バスの窓から、ぶどう畑を見たとか、日本でも、山梨県の方に行きますと、ぶどう畑が、延々と続いているのが見えます。  ご覧になるとわかるのですが、ぶどうの木は、それほど太くない木の幹から、枝がのびています。ぶどう園のぶどうなどは、藤棚のようになった棚を伝って、枝が10メートルも15メートルも伸びています。そして、地下の根もたくましく伸びています。  さて、イエスさまは、当時、パレスチナ地方では、誰でも知っている、ぶどうの木を指さして、「わたしは、まことのぶどうの木である」と言われました。  そして、「あなたがたは、その枝である。人々が、あなたがたが、わたしにつながっており、わたしも、その人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは、何もできないからである。」と、弟子たちや、そこに集まった人たちに、言われました。  イエスさまは、この身近な植物、「ぶどうの木」を、テーマに取り上げて、ご自分と、弟子たち、または、教会の信徒との、あるべき関係について、話されました。  わたしは、ぶどうの木だ、その幹だと。ぶどうの木が、地面の下に根をはって、その幹は、地中から水分を吸い上げ、栄養分を吸い取って、これを大きな枝に、そして、さらに、先端の小さな枝にいたるまで、それを送ります。いわば生命がつながっています。水や肥料が供給されて、はじめて生きて成長していけるのです。  イエスさまは、さらに、人々に言われました。  「わたしの父である神さまは、ぶどう園を所有し、手入れをする農夫である」と。  農夫は、このぶどうの木の手入れをし、また、時には、枝や葉を切り落とす、裁く方でもあると、言われます。  もう一度、今日の福音書に、目を通してください。  ヨハネによる福音書の15章1節から8節までには、「つながる」、「つながっていなさい」という言葉が9回も出て来ます。ぶどうの木の枝は、幹につながっていなければ、枝の先にある小さな枝は育ちませんし、当然、葉っぱも、ぶどうの実も育ちません。  「わたしにつながっていなさい。わたしも、あなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は、豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4、5)  「つながる」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「メノー」という言葉です。これは、とどまる、待つ、残る、住む、続ける、生きながらえる、生き残る、宿る、泊る、などの、意味を持った言葉です。さらにギリシャ語の辞書を引いてみますと、メノーは、「離れない」という否定の意味も持っていて、「どこから」だけではなく、「どれぐらいの間」という時間の感覚をも意味する言葉であると説明されています。  イエスさまは言われます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは、その枝である」と。  そして、さらに、「人が、わたしにつながっており、わたしも、その人につながっていれば、その人は、豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、切り取られた枝のように外に投げ捨てられて枯れる」と。(ヨハネ15:5、6)  第一に、イエスさまは、「わたしは、まことのぶどうの木」であると言われました。「まことのぶどうの木」とは、どのような木でしょうか。「まことの」とは、真実の、ほんとうの、本物のという意味です。見せかけとか、形ばっかりのとか、にせ物という言葉の反対の意味です。私たちが信じるイエスさまが、本ものか、真実のイエスさまか、そして、私たちが、この方を、正しく受け取っているか、心から信じているかが、問われています。  見せかけの、安っぽい聖画の中の像を見て、これがキリストだと思い、聖書の中の、自分に都合の良いところだけを聞いて、それが、イエスさまの教えだと、思い込んでいるようなことはないでしょうか。  私たちは問われています。にせ物のぶどうの木、見せかけのぶどうの木、葉ばっかりが繁って、実を稔らせないぶどうの木を、「ぶどうの木」と思っていることはないでしょうか。  第二に、私たちが、いつも、イエスさまに、ちゃんと、つながっているかどうかが問われています。  「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木です。あなたがたはその枝です。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからです。」  私たちの生き方が、「豊かに実を結ぶ」ためには、イエスさまにつながっていて、そこから、生命と力、心の栄養を得なければ、生きていけません。かた時も、イエスさまから離れては、生きていけない自分を、はっきりと、思い知っていなければなりません。  私たちは、ぶどうの木、イエスさまという幹につながっている枝です。枝は、幹につながっていなければ枯れてしまいます。手や足が、体につながっていなければ死んでしまうのと同じように、私たちの信仰は、枯れて、朽ちてしいます。 反対に、しっかりとつながっていれば、葉を繁らせ、実を稔らせます。体にしっかりとつながった手足は、元気に動いて、頭の命じるままに立派に働くことができます。  教会の重要な営みは、私たちが共に集まり、礼拝をささげることにあります。そして、聖餐に与ります。私たちは、キリストの体、キリストの血を、いただくことによって、私たちは養われ、育てられるのです。このことは、2千年に及ぶ、キリスト教の教会の歴史の中で、脈々と、受け継がれてきました。  折しも、今、世界中に吹き荒れる「コロナ・ウイルス」の旋風によって、私たちは、一人一人が、信仰生活上の、大きな試練にさらされています。  いずれの教会も、主日礼拝を休止し、教会生活が断たれ、信仰生活のリズムが狂ったような毎日を送っています。  果たして、私たちにとって、教会生活は、不要、不急の社会生活の中の一部に組み込まれていて、いいのでしょうか。 私たちクリスチャンは、長年、聖餐式を通して、目に見えるかたちで、主イエスに「つながっている」ことを、確認し合ってきました。  祈祷書の聖餐式の式文、181ページの「近づきの祈り」の中に、私たちは、このように祈ります。  「恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン」 「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは、常にわたしたちにおられますように」。  この祈りと共に、キリストの肉と血に与ることこそが、「わたしにつながっていなさい」と言われる、イエスさまの言葉が、目に見えるかたちで示される「大切な時」なのではないでしょうか。  聖餐に与ることが出来ない、今日この頃であるからこそ、心から痛みを感じ、「イエスさまにつながること」の大切さを噛みしめたいと思います。