主の栄光をお与えください。

2020年05月24日
◆イエスの祈り (1)イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。(2)あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 (3)永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(4)わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(5)父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。 (6)世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。(7)わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。(8)なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。(9)彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。(10)わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。(11)わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。  教会の暦では、イエスさまが復活された日から40日目、先週の木曜日は、「昇天日」という祝日でした。  マルコによる福音書16章19節には、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」と、記されています。先週の木曜日、5月21日は、その「キリストの昇天」を記念する日でした。  今日の主日は、「復活後第7主日」ですが、同時に、「昇天後主日」と呼ばれる日でもあります。従って、今日の特祷では、「み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください」と、祈られました。イエスさまが、「天に昇られた」ということから、この世に残された私たちを「みなしご」とせず、すなわち、「孤児」としないで、聖霊によって強めて下さいと祈ります。  さて、今日の福音書、ヨハネによる福音書の17章1節以下に、もう一度目を向けて頂きたいと思います。  新共同訳聖書では、この個所には「イエスの祈り」という見出しがつけられています。ヨハネによる福音書全体を見ますと、イエスさまは、弟子たちと共に旅をしながら、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、いろいろな奇跡、すなわちしるしを行い、ファリサイ派など、多くのユダヤ人たちと論争し、そして、そのつど、弟子たちに、大切なことを教えて来られました。さらに、イエスさまは、過越の食事の時、弟子たちの足を洗い、食事を共にし、その席で、これから起こることを見つめながら、弟子たちに、最後の「訣別の説教」と言われる「お別れの話」をなさいました。  この訣別の説教は、聖書では5ページ半に渡り、14章、15章、16章と、長い話が続いています。  そして、その後、17章の1節から26節まで、弟子たちを前にして、長いお祈りをされました。  今日の福音書は、その長いお祈りの前半の部分になります。イエスさまは、ある時には、弟子たちに、このように祈りなさいと言って「主の祈り」を教え、ことあるごとに、お祈りをしておられたと記されていますが、今日のヨハネが伝える福音書に記されているお祈りは、その中でも、一番長いお祈りです。  そのお祈りの内容は、大きく3つに別れています。  第1は、イエスさまが、ご自分についてお願いになる祈りです(1節〜8節)。第2は、弟子たちについてお願いになるお祈りです(9節〜19節)。そして、第3は、もっと広く、あらゆる時代の、あらゆる国の、すべてのキリスト教信徒、その共同体(教会)のために祈っておられる祈りです。  このイエスさまのお祈りを、あらためて、ゆっくり読んでみますと、私たちが、日頃、祈っているお祈りと、大きな違いがあることに気がつきます。  私たちのお祈りは、いつも、始めから終わりまで、お願いごとばかりです。「何々をして下さい」、「何々を与えて下さい」というような、神さまに、何かを求めている言葉ばかりを並べているような気がします。私たちは、そのようにすることが、こまごまと、いろいろなことを並べ立てることが、お祈りだと思っています。 イエスさまは、確かに言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。‥‥‥あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7−11) と。  また、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父は、それをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19−20)とも、教えておられます。  それでも、私たちが、神さまに、求め、お願いごとをしている、その姿勢は、多くの日本人が、神社やお寺で、鈴を鳴らし、お賽銭を投げて、願いごとをしているお祈りとは、違うのではないかと思います。  イエスさまは、何でも求めなさい、お願いしなさい、心を一つにして求めるなら、わたしの天の父は、それをかなえてくださると約束して下さっているのですから、同じことではないかと言う人がいるかも知れません。  しかし、よく考えてみますと、私たちは、一方では、「全知全能の神を信じる」、「宇宙世界を支配しておられる神を信じる」言いながら、お祈りと称して、神さまの御心を変えようとする、神さまのなさることを、変更させ、私たちが求め、私たちが欲するようにようになるために、神さまに、身勝手な願いを押しつけ、神さまに、命令しているような祈り、それが「お祈り」だと、思っている、そのようなことはないでしょうか。  そこで、もう一度、今日の福音書の個所に戻って、イエスさまが祈っておられる「祈り」を見たい思います。私たちの祈りと、根本的に違っていることに気づきます。  イエスさまは、最初に「父よ、時が来ました」と呼びかけておられます。確かに、イエスさまは、ご自分に差し迫っている時、これから受けようとする苦難と死を予感しながら祈っておられる「時」であることがわかります。  「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子(わたし)は、あなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられる、あなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリスト(わたし)を知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前で、わたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネ17:1-5)  この1節から5節までのお祈りでは、神さまに「願いごと」らしいことを言っておられるのは、唯一、「子に栄光を与えて下さい。」(1節)、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。」と求めておられるだけです。  それ以外の言葉は、父である神さまと、子であるイエスさまが、話し合っておられる、対話を交わしておられるような文体です。  私たちにとって、私たちが、祈るべき「祈り」とは、どのような祈りでしょうか。それは、神さまと、私たちとの「対話」だと言うことができます。  その内容は、第一に、私たちが受けている神さまからの大きな、大きな、恵みを感謝する気持ちを述べることであり、第二は、神さまを忘れ、神さまのみ心に背いて生きてしまっている自分をふり返って、罪を懺悔することであり、第三に、身近な人々、遠くの人々を思い、その方々のために祈ることではないでしょうか。神さまは、世界中のすべての出来事、すべての人々のことをすでにご存じです。私たちが教えてあげなければ、気が付かれないような神さまではありません。まず、だいじなことは、その方々のことを思い、その方を話題にして、神さまと対話することが大切です。  1996年に亡くなったオランダ出身の元カトリック教会の司祭だった、ヘンリ・ナウエンの著書の中に、「祈りは、聴くことである」、神さまの声を聴くことがいちばん大切なことであるという言葉があったことを思いだします。神さまに祈る、神さまと対話するためには、まず、神さまの声を聴かなければなりません。「主よ、どうぞ、お語り下さい」からお祈りを始める時、私たちのお祈りの内容も変わってくるのではないでしょうか。  その次に、イエスさまは、「わたしは、行うようにと、あなたが、与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前で、わたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(4節、5節)と、祈られました。  今日の福音書の17章1節から11節までには、イエスさまは、「栄光を与えて下さい」と、繰り返し、「栄光」という言葉を6回も使っておられます。  「栄光」とは何でしょうか。英語では、「グローリー」、旧約聖書が書かれたヘブル語では「カボッド」、新約聖書が書かれたギリシャ語では「ドクサ」という言葉です。ヘブル語の元の意味は「重さ」を意味し、そこから「重要さ」「価値あるもの」という意味に使われ、「価値あるものを、価値あるものとする」、さらに「評価、栄光、栄誉、輝き、神の栄光」などという意味に使われるようになりました。  たとえば、音楽会や演劇で、上演が終わった時、出演者にスポットライトが当たり、人々から万雷の拍手を受け、「すばらしい」「よくやった」と言って誉め讃えられます。その姿こそ、栄光を受けている姿です。また、オリンピックやその他のスポーツの世界でも、競技の後で、優勝者は、表彰台に上がり、栄光の冠やメダルが与えられ、拍手を受け、声を上げて、讃えられます。栄光を受けるということは、その名誉にふさわしい人が、努力した結果が認められ、価値が認められることです。価値あるものが、価値あるものとされることです。  私たちは、「主の栄光」、神さまの栄光を讃えます。私たちの世界で、いや、宇宙全体で、最も栄光を受けるにふさわしい、価値を持つ方は、神さまです。天地の造り主、宇宙のすべてを支配し、すべてを善しとし、すべてを愛される神さまこそ、誰よりも讃えられるべき方であり、栄光を受けるべき方なのです。私たち人間が、神を神とする時、神は栄光をお受けになります。イエスさまは、その神さまのみ子です。神の子が、私たちが住むこの世にお生まれになり、人として、最も低い者の一人とされました。イエスさまは「子の栄光を与えて下さい」と言われます(11:2)。しかし、神のみ子イエスさまが、父である神さまから与えられた「み業」を成し遂げ、栄光をお受けになるためには、今、目の前に迫り来る数々の苦難と、十字架上での死という苦痛と恐怖と絶望のトンネルを通らなければなりませんでした。そのトンネルを抜けた時、再び、神となられる、神として「栄光」をお受けになるのです。  「あなたの子(であるわたしが)、あなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られたのは、イエスさまにとって、苦難と十字架の死を受けることであり、「その時が来ました」というのは、人間としての苦しみと死を受け入れることでした。  それでは、何のために、本来、栄光に輝くべき神であるイエスさまが、このような苦痛と苦難のトンネルを通らなければならなかったのでしょうか。それは、人々に、わたしたちに、「永遠の命」というものがあることを知らせるために、なくてはならない出来事だったからです。  イエスさまのお祈りの3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。  それは、わたしたちすべての人々が、「永遠の命」というものがあることを知るためです。永遠の命とは、「神の国」、「天国」と同じ意味です。永遠の命、神の国、天国とは、神さまと、そのみ子イエス・キリストのみ心と力が、完全に、いきわたる世界があることを、人々が、ほんとうにしっかりと知り、受け取るためです。  「永遠の命とは、あなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」この「知る」は、ギリシャ語で、「ギノースコー」という言葉ですが、この言葉は、単に、目で見て知るとか、耳で聞いて知るというだけでなく、「分かる」、「気づく」、「感じる」、「悟る」、「認める」、「理解する」という深い意味を持った言葉です。  私たちの人間関係で言えば、「あの人の名前を知っている」というだけの人間関係もあれば、親友だ、愛し合っている恋人だ、夫婦だという人間関係もあります。その知り方、深さ、親密さにも違いがあります。  イエスさまが言われる「知ること」とは、心の深い所で受け取り、そのことに人生をかけるような「知り方」、心の底から理解することを意味しています。  「永遠の生命」とは、父である神さまと、子であるイエス・キリストを、わたしたちが、信じて、ほんとうに心の深いところで受け入れることです。そのことを知らせるためには、人となった神の子が、苦しみを受け、十字架の死を受け入れなければ、なりませんでした。「その時が来ました」と、イエスさまは、今、その使命を果たし、父である神さまのもとに帰り、再び、栄光の座につこうとしておられます。  「どうぞ、あなたの御前で、わたしに栄光を与えてください」(5節)と、祈られました。