いつもあなたがたと共にいる。

2020年06月07日
マタイによる福音書28章16節〜20節 ◆弟子たちを派遣する (16)さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。(17)そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19)だから、あなたがたは、行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」  教会の暦では、今日は、「聖霊降臨語第1主日」であるとともに、「三位一体主日」という日です。  私たちは、父である神、子であるイエス・キリスト、聖霊である神、この三つであって一つである、神さまを信じるという「三位一体の神」を、信じる信仰を「確認」する日です。  聖パウロは、コリントの信徒への手紙第二 13章5節に、このように記しています。  「信仰を持って生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは、自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストが、あなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……」と。  あなたがたに、ほんとうの信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。それとも、イエス・キリストが、あなたがたの内におられることを、まだ、悟っていないのですか。もし、悟っていないのであれば、あなたがたは、偽者として、見捨てられてしまいますよ、とパウロは、言っているのです。  今日の主日は、私たちが、パウロから迫られるように、私たちの信仰、自分自身の信仰のあり方を、静かにふり返り、吟味し、そして、もっと、もっと、ほんとうの信仰を、しっかりと持たせて下さいと、祈り求める時です。  さて、今日の福音書は、マタイが伝える福音書の、最後の部分です。  11人の弟子たちは、ガリラヤ地方に行き、イエスさまが指示しておかれた山に登り、そこで、復活されたイエスさまに、お会いしました。その時に、弟子たちに与えられた最後の言葉が、ここに記されています。  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、言われました。  世界中には、たくさんの宗教があります。それぞれ、自分が信じている宗教が、一番正しい、いちばん素晴らしいと思い、信じているわけですが、その中で、キリスト教の信仰にも、他の宗教にはない、いくつかの特徴があります。  その中でも、最もよくその特徴を現し、だいじな教えだと言われている言葉、それは、この「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う言葉です。  街を歩いていると、よく見る風景ですが、たくさんのタクシーが街の中を流しています。また、駅前や観光地の駐車場でも、タクシーが、お客さんを待っています。客待ちのタクシーには、「空車」という標識がついています。その空車のタクシーに、お客さんが乗ると、標識は、「実車」に変わります。空車とは、お客さんが乗っていない、「空(から)の車」という意味だということは、よく分かるのですが、この空車は、「空しい車」とも読むことができます。こんなことを言うと、タクシーの運転手さんに叱られるかも知れませんが、私は、街を流している空車を見ると、つい「空しい車」とつぶやいてしまうのです。  私は、高校を卒業して、一度、就職し、2年後に、大学を受験し、学生生活を送りました。印刷屋で、朝から晩まで、丁稚奉公をし、学生時代は、毎日、アルバイトばかりしていたのですが、その時期には、毎日、「空しい」、「空しい」という言葉を繰り返していました。虚無思想というか、ニヒリズムという思想に、取り憑かれ、暗い毎日でした。  何も信じられないと言って、すべてのことに絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、すべてのものが無価値である、偽りであると、決めつけて、前向きに、ものごとを考えることができない、無意味、無駄、そして空しいという生き方に陥ってしまいました。最後には、自殺願望に取り憑かれ、恐ろしくなって、キリスト教の教会に飛び込み、牧師さんに話を聞いてもらいました。  神さまのことも、キリストと教のことも、何も分からないままで、洗礼をうけました。21歳の時でした。  恥ずかしながら、そのような時期があって、昔のことを思いだし、私は、「空車」を、「空しい車」と読んで、かつての若かった時代の虚無感に陥っていた時代を思い出します。  空車のタクシーに、お客さんを乗せると、「実車」と標識が変わります。実車とは、辞書を引いてみますと、「タクシー、ハイヤーなどの営業用自動車が客を乗せていること。空車の反対語」と記されています。これは、私には、「実り多い車」、「充実した車」と読み替えてしまいます。  お客さんに乗っていただくと、「空車」は、「実車」になるのです。  もし、タクシーの運転手だったら、と考えてみます。  そして、後ろの席に乗って下さっているお客さんは、イエスさまです。タクシーの客は、行き先を告げてくれます。車を走らせるべき目的が与えられます。運転手は、客が告げた目的地に向かって、車を走らせるように、イエスさまを乗せた私たちは、生きる目的が与えられ、ひたすら、言われた方向に向かって、車を走らせます。途中、道を間違えても、入りくんだ迷路に入り込んでも、お客さんであるイエスさまは、修正したり、訂正したりして、そこから抜け出す道順を教えてくれます。イエスさまを乗せたタクシーは、「実りのある車」です。運転手は、充実した気持ちに充たされます。  マタイの福音書に記された、イエスさまの最後の言葉は、「世の終わりまで」いつまでも、いつも、あなたがたと共にいる、私たちが生きている今も、共にいる、共にいてくださるということです。私たちが、運転するタクシーの後ろの席に、イエスさまは、いつも、いつまでも乗っていてくださると、約束して下さっています。  一方、私たちが生きているこの社会では、人が、人と、共にいる、共に居つづけるということが、いかに難しいことかということを、その難しさを切実に感じて、知っていなければ、イエスさまの言葉の意味の深さもわかりせん。  家族が一緒に住んでいても、一緒の職場で朝から晩まで顔をつき合わせて仕事をしていても、一緒に住んでいるから、共に働いているからと言って、ほんとうに、共に居る喜びを、感じているとは限りません。大勢の人々に取り囲まれていても、その中で何とも言えない淋しさを感じたり、孤独を感じたりすることがあります。反対に、たった一人の人を思い、遠くに暮らしていても、また、愛した人が、もうすでに、この世に居なくても、いつもその人と共にいることを確信することもでき、満たされて生活することもできます。  1996年に亡くなったカトリック作家、遠藤周作氏の作品に「死海のほとり」(1973年)という作品があります。  遠藤周作氏が、小説の中で描いたイエス・キリストは、無力な、いつも哀しい眼をしていた、そのようなイエスとして描かれています。決して、華々しく奇跡を行って、人を引きつけようとするような方ではありませんでした。  イエスさまは、すべての人々から見捨てられ、誰からも見放された人と共にいて、最後まで立ち去らなかった人。共にいる人、「わたしは、あなたのそばにいる。あなた一人ではない」と、小さな声で、つぶやき続けた人。そして、その結果、人をいやし、立ち上がらせた人、そのために大勢の人がその後について歩いた。そのような人として、遠藤周作氏は、イエスさまのことを描いています。  マタイ福音書の最後の言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」は、私たちには、この言葉が、遠藤周作が描くイエスさまの、「そばにいる。あなた一人ではない」という言葉に聞こえます。  復活したイエスさまは、いつもわたしたちのそばにいてくださいます。あなたのそばにいて下さる。  「あなたは一人ではないのだよ」と、ささやいてくださる。  忙しい、忙しいと走り回っている中でも、何ともいえない、淋しさを感じる時があります。何とも言えない孤独感に襲われることがあります。腹が立ってしようがない時もあります。  思わぬことが起こったり、人の心がわからなくなったりする時もあります。親子といえども、夫婦といえども、どんなに親しい友だちであっても、立ち入ることができない、話せない、わかってもらえない時があります。誰も彼も、みんな立ち去ってしまうように感じる、時があります。  しかし、イエスさまは、立ち去らない。イエスさまは、そばにいて下さる。「あなた一人ではないのだよ」と言って下さる。私たちが、イエスさまを信じるということは、そのようなイエスさまが、いつもそばにいて下さることを信じ、信頼し、確信することです。  私たちは、イエスさまを乗せたタクシーの運転手です。後部座席に座っておられるイエスさまは、行き先をはっきりと告げ、私たちは、それを受けて、進むべき目的に向かって車を走らせることができます。  タクシーの運転手さんは、車を走らせながら、会話を交わすことができます。  「お客さん、今日は、こんなことがありましてねえ」、  「お客さん、わたしは、腹が立ってしようがありません」、  「お客さん、こんなにうれしいことがありました」、  「お客さん、私は、どうしたらいいのでしょうねえ」と。  にこにこして聞いて下さる、イエスさまであるお客さんと、対話しながら、運転することができます。これこそ、「実りある車」です。こんなにすばらしいことはありません。私が運転する自動車に、後ろの席にイエスさまというお客さんを乗せている、こんなにすばらしいことはありません。これこそ、私たちに与えられている恵みです。  パウロが、コリントの教会の人々に書いた手紙を通して私たちに投げかけられた言葉、  「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」に対する、これが答えであり、信仰に生きる生活です。  どんな時にも、私たちを裏切ることなく、私たちを見放すことなく、いつも変わらない神さまのまなざし、それが、目に見える姿をとって現されたイエスさまであり、この方が、つねに、私たちと共に、いてくださると、約束して下さり、私たちが、それを確信し、体中でそれを受け取る瞬間、その時こそ、私たちが、本当の安心と喜びと感謝に満たされる時ではないでしょうか。  そして、それだけでなく、イエスさまに、ならって、私たちも、隣人に対して、「わたしはあなたのそばにいますよ、あなた一人ではないですよ」と言えるような人でありたい、そのような生き方をしたいと願います。  最初に読みました聖パウロの手紙の、もう一節前を読みます。  「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちも、キリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(コリントの信徒への手紙�� 13:4) 〔2020年6月7日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 京都聖ステパノ教会 礼拝休止〕