弟子たちの派遣

2020年06月14日
マタイによる福音書9章35節〜10章8節 ◆群衆に同情する (35)イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。(36)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(37)そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 ◆12人を選ぶ (1)イエスは、12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(2)12使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、(3)フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、(4)熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 ◆12人を派遣する (5)イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。(6)むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。(7)行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。(8)病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」  教会の暦では、今日から、「聖霊降臨後の節」という期間がが始まり、祭色も「緑」に変わります。聖霊降臨後の時代は、「教会の宣教の時」であり、「聖霊降臨後の節」とは、そのことを、特別に、心に強く覚え、弟子たちの働きについて学ぶと共に、教会の宣教活動について考える期間です。  そして、今日の福音書(マタイ9:35〜10:8)では、イエスさまが、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられ、多くの病人を癒やされた。それでもなお、イスラエルの人々が、飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみを持たれました。  そこで、12人の弟子たちを選び、「天の国、神の国の支配が近づいている」ということを人々に知らせ、病気やさまざまな患いを癒やすため力を彼らに与え、彼らを、イスラエルの町や村に派遣されたことが記されています。  一方、先ほど、読まれた、今日の旧約聖書(出エジプト記19:2〜8)では、モーセが、シナイ山に登っていくと、神が語りかける声が聞こえ、「神の声に聞き従い、神の契約を守るならば、『あなたたちは、祭司の王国、聖なる国民となる』」と語られた、という出来事が記されていました。  モーセが山から下りて、イスラエルの人々に、そのことを告げると、人々は、一斉に「わたしたちは、神が語られたことを、すべて守り、行います」と、誓いました。  このように、今日の主日には、旧約聖書にも、使徒書にも、福音書にも、教会の宣教活動の背景とも言うべき、人々への救いの理念、具体的な活動の第一歩である、教えが、読まれています。  このように、今日の聖書日課のテーマを知った上で、もう一度、福音書に、目を向けたいと思います。  イエスさまには、12人の弟子たちがいたことは、よくご存知だと思います。たぶん、その他にも、熱心な女性たちが、後に従っていましたし、広い意味で、弟子たちと呼ばれる人たちが、いつも、イエスさまを取り囲んでいました。今の言葉で言えば、ファンとか、追っかけというような人たちもいたのではないでしょうか。  その中でも、この12人の弟子たちには、特別の「権能」、力が与えられ、彼らは、「12人の弟子」、「12使徒」と呼ばれていました。それは、特別の使命を持って、遣わされた人たちという意味です。今、読みました福音書には、その12人の弟子たちの名前が、挙げられています。 「12使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ。ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ。フィリポと、バルトロマイ、トマスと、徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブと、タダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」(マタイ10:2〜4)という「12人」です。  彼らは、まず、イエスさまによって選ばれた人たちであり、イエスさまによって、招かれた人たちです。  「わたしについて来なさい」、「わたしに従いなさい」と命じられて、従った人たちでした。彼らは、いつも、イエスさまに従って歩き、共に生活し、イエスさまから、直接、教えられ、訓練を受け、試みられ、そして大事な使命が与えられて、各地に派遣されました。  イエスさまの3年間の「公生涯」は、ご自身が福音を宣べ伝えることでありましたが、同時に、弟子たちを、忍耐強く訓練されることでもありました。  イエスさまの思いや教えが、なかなか理解できない弟子たちに対して、ある時にはきびしく、ある時には優しく戒めながら、彼らに教え、訓練し、整えてこられました。  もう一ヶ所、聖書を読みます。マタイによる福音書の最後の節です。  「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは、行って、すべての民を、わたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに、命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:16〜20)  マタイによる福音書によると、週の初めの日の明け方、お墓を見に行ったマグダラのマリアに、よみがえられたイエスさまが現れ、「おはよう」と声を掛け、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟(弟子たち)に、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこで、わたしに会うことになる」と言われました。マグダラのマリアから、それを聞いた11人の弟子たちは、ガリラヤへ行き、イエスさまが指定された山に登り、そこで、彼らは、よみがえったイエスさまにお会いしました。 イエスさまは、言われました。  まず第1に、「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という言葉です。  第2に、「彼ら(すべての人々)に、父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けなさい」という言葉です。  第3に、「あなたがた(11人の弟子たち)に、命じておいたこと、教えておいたことを、すべての人々が、守るように教えなさい。」という言葉です。  そして、第4に、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、語り、命じられました。  第1は、福音の宣教です。  第2は、洗礼です。  第3は、キリストの教えを守ることです。そして、  最後の第4は、世の終わりまで、主は、共にいて下さるという、終末と、主の臨在の希望です。  イエスさまが、最後に、約束して下さる、この4つの目的は、それ以後、2千年後にも続く、教会の具体的な目的であり、現在、キリスト教信徒として生きる私たちの、また、私たちの教会の、見失ってはならない目的です。さらに、将来、どんなに世の中が変わっても、変わることのない、教会の将来の目的でもあります。  私たちは、洗礼を受けました。また、主教さんから、堅信式も受けました。わたしは、幼児洗礼だった、または、ずいぶん、昔のことだったので、何も覚えていませんという方も、おられるかも知れません。しかし、私たちは、幼児洗礼であろうと、おとなになって受けた洗礼であろうと、「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」という言葉を唱えて、頭に水をかけられ、額に十字の形を記されて、洗礼を受けました。  わたしは、文語の祈祷書だったから、そんなことは知らんという方もおられるかも知れませんが、洗礼の言葉には変わりはありません。  受洗の直後の言葉として、「あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、云々」という言葉が宣告されます。文語祈祷書でも、「このしるしは、キリストの十字架を恥とせず、生涯キリストのしもべとなり、また忠義なる兵卒となり、その旗もとにありて、勇ましく、罪と世と悪魔とに向かいて戦うことを表すものなり アーメン」と唱えられ、会衆全員が、声を揃えて、「アーメン」と唱和しました。  私たちは、大昔であろうと、最近であろうと、神さまの前で、キリストの僕、神の民、神の兵卒になること誓い、約束したのです。  イエスさまは、12人の弟子たちを、呼び寄せ、彼らを選び、特別の権能を授け、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるために、彼らを派遣されました。  これは、私たちの教会の制度でいう、教役者、聖職者のことだと見る人も居るかもしれません。しかし、もっと広い意味で、すべての信徒、神の民、神の兵卒とされた、すべてのクリスチャンが、キリストの僕として生きる、「生き方」を指しているのではないでしょうか。  先ほど、引用しました、マタイ福音書の最後の言葉をもう一度、思いだして下さい。  まず第1に、「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」〔使命〕  第2に、「彼ら(すべての人々)に、父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けなさい」。〔証し〕  第3に、「あなたがたに、命じておいたこと、教えておいたことを、(例えば、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」等々)、数ある教えを、すべての人々が、守るように教えなさい。」〔教育〕  そして、第4に、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる。」〔終末への希望〕  私たちは、それぞれの場で、毎日の日常の生活の中で、どのように、キリストを証しし、生きているか、生き方が、問われているのではないでしょうか。 〔2020年6月14日  聖霊降臨後第2主日 (A年 特定6) 於・桃山基督教会〕