恐れるな
2020年06月21日
聖霊降臨後第3主日(A-7)
マタイによる福音書10章24節〜33節
(24)「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。(25)弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(26)人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。(27)わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(28)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(29)二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(30)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。(31)だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(32)「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 (33)しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
マタイによる福音書10章には、イエスさまが、12人の弟子たちを選び、彼らに特別の権能、力をお与えになり、彼らをイスラエルの各地に派遣されたことが記されています。そして、今、読みました今日の福音書、マタイ福音書の10章24節から33節までは、イエスさまが、弟子たちを派遣するにあたって、彼らに語られた諸注意が、じゅんじゅんと、記されています。そして、今、読みましたこの福音書を、よく見ますと、イエスさまは、ここで、「恐れるな」、「恐れなさい」という言葉を、4回も使っておられます。
イエスさまは、誰に向かって、何に対して、「恐れるな」と言われているのでしょうか。
イエスさまは、イスラエルの各地に、これから派遣しようとする弟子たちに向かって、これから、次々と起こるであろう困難や迫害を予想し、「恐れるな」と言われています。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに、羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは、地方法院に引き渡され、会堂で、鞭打たれるだろう。また、わたしのために、ローマの総督やユダヤの王の前に引き出され、証人として立たされ、証言させられることになるだろう。そのような時、何をどう証言したらよいのか、心配する必要はない。その時には、言うべき言葉は、ちゃんと与えられる。証言台に立って話すのは、あなたであっても、話すべき言葉は、神の霊が与えてくださる。」(マタイ10:16〜20)
「さらに、あなたがたの家族の中では、兄弟は、兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すようなことが起こるだろう。また、キリスト・イエスの名のために、あなたがたは、すべての人に憎まれることになる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:21〜22)
イエスさまは、今、任命したばかりの弟子たちに、これから始まる、これ以上の厳しさはないだろうと思われるほど厳しい「迫害」の様子を予告されました。
そして、その弟子たちを励ますために、何が起こっても「恐れるな」と、今日の福音書の言葉が語られたのです。そして、その後、イエスさまがなさった「迫害の予告」のようなことが、現実に起こったのでしょうか。
12使徒によって選び出された7人の弟子の一人、ステファノが、ユダヤ人に石を投げつけられて、最初の殉教者となり、その後、エルサレムの教会に大迫害が起こり(8:1)ました。
また、ヘロデ王は、教会に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブが殺されました。それがユダヤ人たちを喜ばせたというので、ヘロデ王は、ペテロを捕らえて牢獄にいれ、また、ユダヤ教から回心したパウロも、伝道旅行の途中、フィリピで投獄されました。テサロニケでも騒動が起こりました。エフェソでも騒動が起きました。さらにエルサレムに帰ったパウロは、神殿の境内で捕らえられ、鎖でつながれ、殴られ、殺されそうになりました。
このように、ペテロもパウロも、その他の弟子たちも、キリストの教えを宣教すればするほど、迫害の波は大きくなり、捕らえられたり、暴力を振るわれたり、牢獄に入れられたり、殺されたりすることが続きました。
最初は、ユダヤ人たちから始まり、迫害の波は各地に広がり、ギリシャ人からも、ローマ人からも迫害を受けることになりました。弟子たちの教えを聞いて、大勢の人たちが、洗礼を受け、教会に属する者になったのですが、その一方では、このような迫害を恐れて、逃げだし、散っていった人たちもたくさんいました。
そのような中で、今、読みました今日の福音書は、いつ、迫害が自分の身に降りかかるかわからない、捕らえられ、辱(はずかし)めを受け、牢獄に入れられるかわからないという中で、死への恐怖におびえ、直面しながら、信仰生活を続けている当時のクリスチャンに、慰めと力づけを与え、ほんとうに「恐れるべき方」は、誰なのかを教え、神さま以外に恐れるものはないのだということを説いています。
先ほども言いましたように、今日の福音書には、「恐れてはならない」、「恐れるな」という言葉が4回も語られています。
まず、第一に、26節、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」(マタイ10:26、ルカ12:3) 器の外側は、きれいに飾り、きれいに磨いていても、その内側、器の中味は、汚いもので満ちている。ファリサイ派の人々は、いかにも権威があるかのように語り、振る舞い、口では「神よ、神よ」と信仰深そうなことを言っています。立派な服装を身につけ、威張りちらしていました。しかし、その中身は、その内側は、強欲と悪意に満ちていると、イエスさまは、指摘されます。彼らが、いくら権力を誇っても、権威を振り回しても、恐れることはない。その虚栄、見せかけ、偽善者の化けの皮は必ず剥げる。明らかにされる。隠されているものは人々の前に知らされると言われます。だから恐れることはないと、イエスさまは言われました。
第二に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」とい言われます(28節)。権力者たちは、役人や兵士に命令して、人を捕らえ、蹴ったり、殴ったり、牢獄に閉じこめて、暴力で人を意のままにしようとします。人を殺すことができる権力さえ持っています。しかし、たとえ、人を殺しても、体は殺しても、肉体に強制力を加えたとしても、「魂」を殺すことはできません。人の魂まで、「心の中」まで、これを自由にすることはできません。そのようなものを恐れることはないと、イエスさまは言われます。
第三に、それよりも、魂も体も滅ぼすことができる方、神を恐れなさい。ほんとうに恐れるべき方を恐れなさい。そうすれば、それ以外のものは、何も恐れることはないと明言されます。そのほんとうに「恐るべき方」とは、すべてのものに、生命を与え、またその命を取り去ることができるかたです。神は、魂も体も支配される方なのです。生命を創造し、すべてのものを創造し、そして、すべてを存在させ、すべてを支配される方です。そして、また、すべてに終わりを与え、すべてを審く方であり、滅ぼすことができる方です。
太陽の光の前に、その他のあらゆる光は色あせ、光を失うように、ほんとうに恐るべき方を恐れていれば、どのような人の力も恐れることはありません。
1アサリオンとは、ローマの青銅貨で、一番小さな単位のお金です。1アサリオンは16分の1デナリオン。1デナリオンは1日の賃金だといわれます。2羽の雀が1アサリオンで売られています。2羽をセットにして売られているような雀でさえ、神様が命を与え、命を取られるのでなければ、飛ぶことも、落ちることもできません。ここでは、雀も髪の毛も、一般的に価値の低い、取るに足りないものの見本としてあげられています。私たちには、自分の1本の髪の毛ですら、自分の思うままになりません。髪の毛の数さえ、神様によって数えられているのです。神様の支配の下にあるのです。
「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 あなた方は、雀以上の存在、雀、何百羽分よりも優れた存在ではないか。あなたがたは、生かされ、存在させられ、また、生きている者にも死んだ者にも支配者である神を知っています。その神に絶対の信頼をおくならば、その他の何者も恐れることはないと言われます。
押し寄せる迫害の恐怖におののく人々に「ほんとうに恐れるべきものを恐れよ、そうすれば、それ以外のものは何が来ようとも恐れることはない。」と言われます。
私たちは、「恐れるな」、「恐れなさい」と言われると、今、すぐに、頭に思い浮かべることは、新型コロナ・ウイルスのことです。毎日、テレビや新聞で、このことが報道され、世界中の人々が恐れ、予防や治療のために努力し、今もそれが続いています。世界中の各地の教会で、礼拝が休止になったり、テレワークを始めたりして、この時を乗り越えようとしています。それぞれ、外出を自粛し、マスクをつけたりしています。そのような状況の中で、イエスさまは、今、私たち、一人ひとりの前に立ち、私たちに向かって、「恐れるな」と言われます。
「恐れるな、しかし、ほんとうに恐れるべき方を恐れなさい。」と言われます。