わたしにふさわしくない。
2020年06月28日
聖霊降臨後第3主日(A年特定8)
マタイによる福音書10章34節〜42節
(34)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(35)わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
(36)こうして、自分の家族の者が敵となる。 (37)わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(38)また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。(39)自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(40)「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。(41)預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。(42)はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
今、読まれました福音書、マタイによる福音書の10章37節、38節には、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とありました。
この短い短い聖書の中に、イエスさまは、「わたしにふさわしくない」という言葉を、3度も使っておられます。
イエスさまよりも、父や母、息子や娘を、愛する者は、イエスさまには、ふさわしくないと言われるのです。
ここで使われている「ふさわしい」とか「ふさわしくない」とは、どのような意味でしょうか。
新約聖書が書かれたギリシャ語のこの言葉を、辞書を引いてみますと、「アクシオス」という言葉なのですが、それは、「値打ちある、値する、ふさわしい、適った、当然」といった日本語に、訳されている言葉です。その語源は、重さを計る「はかり」、天秤計りで、これで、何かを計る時、一方の天秤皿に、計るための何か物を載せ、もう一方の天秤皿に、大きい重りや小さい重り、いろいろな「重り」を載せて、目方を計ります。このように引き上げるもの、「同じ重さ」、「同じ値打ち」から、「つり合っている」「ふさわしい」という意味になり、この言葉が使われています。
皆さんもよくご存じだと思うのですが、ルカによる福音書の15章に、イエスさまによって「放蕩息子のたとえ」と言われる「たとえ」が語られています。その中で、お父さんの所を、飛び出した行った弟が、放蕩に身を持ち崩して、ぼろぼろになって、お父さんの所へ帰えってきました。そして、飛び出して行ったその弟は、「お父さん、わたしは、天に対しても、また、お父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にでも、してください」と言いました。「もう、あなたの息子と呼ばれるに、資格はありません。」「値打ちはありません」と言いました。(ルカ15:18、19)
ここで、「値打ちはありません」と言っている、この言葉が、ギリシャ語の「アクシオー」、「ふさわしくない」と訳されている同じ言葉なのです。
さて、今日の福音書の本題に戻りますと、イエスさまは、弟子たちに向かって、そして、今、この福音書を読む、私たちに向かって言われます。
「あなたがたは、父や母、息子や娘と、「わたし」すなわち、イエスさまとを、天秤にかけて、どちらを取りますか。どちらを大切にしますかと、お尋ねになりました。
そして、わたしより(イエスさまより)も、父や、母や、息子や、娘の方を、大切にする人は、わたしの弟子ではない。わたしの、「ほんとうの信者」でもないと言って、弟子たちに、そして、私たちに、迫っておられます。
「わたしが、この世に来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしが来ることによって、人と人とを、敵対させるために来たからだ。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。このようにして、わたしに出会うことによって、自分の家族の者たちが、敵となり、分裂したり、対立したりすることになる」と。(34節、35節、36節)
このように、イエスさまは、私たちを、びっくりさせるような、恐ろしいことを言って、私たちに、迫って来られます。
キリスト教とは何か、キリスト教の教えの中心は、どこにあるのか、最も大切な教えは何かと考えてみますと、聖書全体が語っていることを、一口で言うと、「何がなんでも、イエスさまが中心」、「キリスト中心主義」だと、言って、言い過ぎではありません。
もし、私たちが、町に出て、道行く人々に、イエスさまという方は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは、人と人とを、敵対させるために来たのだと、言っておられる」と言うと、人々は、どんな反応を示すでしょうか。
時代が変われば、考え方も変わるのは当然ですが、それでも、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」という、この言葉は、どんな時代であっても、通用しないような厳しい、不穏当な言葉です。
私たちの教会では、いつも、世界の平和のために祈り、戦争の被害者のために祈り、災害の被害者のため、コロナの脅威が早く治まりますように、等々、すべての人々が、おだやかに、争いや、憎しみ合うことのない、平和な生活が送れますようにとお祈りをしています。
私たちが、教会で、平和のためのお祈りをしていることと、イエスさまが、「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われる言葉は、矛盾しているのではないでしょうか。
しかし、ここで、考えなければならないことがあります。
それは、イエスさまが考えておられる「平和」とは何か。私たちが求めている「平和」とは何か。その違いはどこにあるのかということです。
人類の歴史が始まって以来、国と国とが争い、戦争をし、部族と部族、意見が対立するさまざまな集団、個人と個人との争いは、現在に至るまで、絶えたことはありません。
人間の歴史は、戦争の歴史だったと言っても、過言ではありません。それが分かっていながら、私たちは、平和が実現しますようにと祈っているのです。それでは、私たちは、実現しそうもない「偽りの平和」や、「見せかけの平和」を、求めているのでしょうか。気休めのための祈り、「平和、平和」と叫んでいるだけなのでしょうか。
パウロは言います。ローマの信徒への手紙3章9節からですが、「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人も、ギリシア人も、皆、罪の下にあるのです。」そして、パウロは、詩篇の14編1節から3節を、次のように引用しています。 (ロマ3:9〜12、詩篇14:1〜3)
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれも、かれも、役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない」と。
ほんとうの「平和」が得られない理由は、それは、神さまを、神さまとして、信じることが、できていないからだと言います。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」それは、一人一人が背負っている「罪」が原因です。戦争や、争いの原因は、神さまに対する私たちの「罪」にあります。
神さまは、私たち一人一人が、世界中の人たちが、ほんとうの「平和」を求め、本ものの平和を得ることを願っておられます。そのために、神さまは、ひとり子を、この世にお遣わしになり、神のみ子の命と引き替えに、私たちの罪を除いて下さったのです。
今日の使徒書、ローマの信徒への手紙6章3節以下に、もう一度、目を向けてください。パウロは、このように述べています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに、結ばれるために、洗礼を受けたわたしたちが皆、また、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが、御(おん)父(ちち)の栄光によって、死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
イエスさまは、私たちのために、私たちの罪を負って、死んでくださいました。私たちの罪を滅ぼし、復活して、私たちを生きるものとするためです。そのことによって、ほんとうの平和にいたる道を開いて下さったのです。
平和をつくり出す人、ほんとうの平和を追い求めることは、主が与えてくださった「平和の福音」に従って生きることです。
イエスさまは、父や母、娘や息子、その他の兄弟姉妹を愛し、平和だ、平和だと思っていることは、単に見せかけの平和に過ぎない。神さまの御心にかなったほんとうの平和ではないと言われます。そのような平和は、すぐに壊れてしまいます。
今日の福音書の「10章38節、39節」をもう一度読みます。
「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
ここで、もう一つ、イエスさまが、私たちに向かって、「わたしにふさわしくない」と言われる条件があります。
それは、「自分の十字架を担って」という言葉です。ここで、イエスさまが、私たちに期待しておられる姿は、手ぶらで、何の重荷もなく、鼻歌を歌いながら、スキップしながら、イエスについて行く、従っていく姿ではありません。
私たちは、今の時代、この世で生きていくためには、それぞれに大きな重荷、苦しみや悲しみ、悩みや怒り、恐れを持って生きています。イエスさまが、すべての人々の苦しみや悩みを担ってゴルゴタの丘に向かって歩かれたように、今、イエスさまに従おうとする私たちは、自分の重荷を、自分の十字架として、これを背負って、イエスさまに従うことを求めておられます。
イエスさまは、「わたしに従うのですか、従わないのですか。」と問うておられます。考え方、生き方、そして、日々の生活において、イエスさまに従うのか、従わないのか、どちらですかと、私たちに、問うておられます。私たちに、迫っておられます。
イエスさまは、ほんとうの平和とは、ご自分の鼻の頭を指さして、「それは、わたしだ、わたしだ」と言っておられます。
イエスさまは、言われます。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を、受け入れるのである」と。
私たちは、キリストのために、人を愛します。
それは、神さまが、私たちのために、キリストを与え、私たちを愛してくださったからです。
私たちは、キリストのために、人に仕え、人に奉仕します。それは、キリストが、まず、私たちのために仕えてくださったからです。
私たちは、キリストのために生きます。
それは、神が、私たちの命を、与えてくださったからです。
私たちは、キリストのために死にます。
それは、その前に、私のために、私たちのために、キリストが死んでくださったからです。
私たちは、キリストのために、礼拝をささげます。
それは、私たちに、神さまが特別の恵みを与え、私たちが神に感謝し、神を賛美する方法を示してくださったからです。
(於・聖光教会)